儒侠と呼ばれた悲運の天才学者

唐津街道姪浜宿の本道から少し外れた所に亀井南冥の生家跡があります。家は現存しておらず、現在は駐車場になっています。

亀井南冥は亀門学の祖として、幕末から明治期にかけて、福岡出身の多くの著名人に影響を与えました。豪放磊落な性格で、福岡の偉人の中でも個人的に好きな人物です。

姪浜の町医者の子として生まれた南冥は、教育熱心な父の英才教育を受け、全国各地を遊学して幼い頃から神童ぶりを発揮します。父が唐人町に移住する頃には、その学識の高さは全国的に知られており、父の隣で私塾を開くと入門者が殺到しました。その噂を聞きつけた藩の重役が、朝鮮通信使の応接に南冥を抜擢します。南冥は通信使が賞賛するほどの詩文で見事に対応し、さらに藩内での評価を高めました。

このような経緯から、藩主黒田治之は南冥を儒医として採用します。その後、藩士の子弟を教育する東西両学問所が開設されました。東学は修猷館と呼ばれ大名町に、西学は甘棠館と呼ばれ郭外唐人町に設けられます。南冥は藩主の命により、西学問所の初代学長に大抜擢されます。

東学では貝原益軒の学統を受け継ぎ朱子学を、西学では南冥を中心に徂徠学(そらいがく)を学びました。朱子学は理論や身分の上下を明確にする事を重んじ保守的な一面があったのに対し、徂徠学は個性を生かして自由に遊学させる実践を重んじる学問でした。

切磋琢磨させる狙いで開設された両学問所でしたが、学閥の違いから確執が生まれます。

学問所が設立された同年に、藩内の志賀島から、有名な「漢委奴國王」と印刻された金印が発掘されます。藩の役人は当然両学問所へ鑑定の依頼を行いますが、南冥は即座に「後漢書東夷伝」を引用して金印の由来を説明し、『金印弁』というレポートのようなものも藩に提出しました。東学側も負けじと『金印議』というレポートをまとめて藩に提出しますが、完全に遅れを取ってしまった為、南冥の評判を高める結果になってしまいます。この一件で藩内の人気は圧倒的に西学に傾きますが、身分の上下を重視する朱子学派からすると耐え難い屈辱だったでしょう。町民出身の南冥に完全に学識で負けてしまった形です。東学は完全に西学を敵視してしまいます。

圧倒的に劣勢だった東学でしたが、元号が天明から寛政に代わる頃、幕府から「寛政異学の禁」という朱子学以外の学問を禁じるという御触れが出されました。幕府の威光で勢いを得た東学派閥は、ここぞとばかりに西学潰しにかかります。南冥が依頼されて書いた太宰府政庁跡地の碑文に、勤王思想(朝廷を敬い、幕府体制を否定する)を思わせる文字が含まれているという事を理由に藩に働きかけ、南冥を甘棠館館長から罷免させてしまいました。

藩内の学閥争いに敗れ、自宅に軟禁状態になって失意の南冥にさらに悲劇が襲います。唐人町を襲った火災で、甘棠館は隣接していた南冥の自宅ともに全焼します。甘棠館はこれを機に廃校となり、藩学から徂徠学派は締め出されてしまいました。

弟子の広瀬淡窓がこの時の逸話を残しています。火事の知らせを聞いた淡窓は、慌てて日田より駆けつけますが、目に飛び込んできたのは焼跡に筵をひいて塾生達と酒盛りをしている南冥の姿でした。詩をよくし、酒をたしなみ、旅を愛し、任侠肌の性格で儒侠と呼ばれた南冥らしいエピソードですね。その後南冥は、失意のまま自宅の火災で亡くなりますが、学問や教育方法は「亀門学」と呼ばれ後世に引き継がれています。