父の教えを紡いだ臥薪嘗胆の2代目

前回までの流れはこちらから)父南冥が学閥争いに敗れ失脚した蟄居処分となってしまった後は、長男の昭陽が父の役務を継ぎましたが、西学問所が火災で焼失すると、藩は再興を許可せず、学生は全員修猷館に編入することになりました。甘棠館で教鞭を取っていたは徂徠学派の面々は、学閥の違いからか修猷館の指導に就く事はなく、隠居するか城代組平士(様々な雑務に就く下級藩士)への編入をせまられました。

学才は父を超えると言われた 昭陽

朱子学派の執念は凄いですね、藩政の裏から手をまわして執拗に攻撃しています。

辺境の地で何を想ったのだろう。

蟄居した父に代わり、徂徠学派を引き継いだ昭陽は、私塾「亀井塾」を開いて門下生の教育に当りました。西学問所が焼失した後も、私塾として続いた徂徠学派でしたが、朱子学派の更なる攻撃が続きます。昭陽に藩から「烽火番」(狼煙台の連繋)という雑務が言い渡され、昭陽は六ヶ岳という山奥に飛ばされてしまいました。任地である六ヶ岳に着くと、寝泊まりする山小屋すら完成していない状況でした。絵に描いたような左遷ですね。

昭陽は烽火番の任務に対して、決して腐らず真面目に取り組みました。すると、残してきた塾生達が六ヶ岳に集まってきます。先生が来れないなら、自分達が先生の元へ行けば良いと考えたようです。こうして烽火番の任務を務めながら、山頂で塾生達に講義を行いました。その後も数々の名著を山中で執筆しており、南冥の興した学問を、昭陽が体系化して繋げて行きました。

徂徠学の流れを汲む南冥・昭陽の教え亀門学は、政治と宗教(道徳)の分離を説き、言論の自由や個人の持ち味を生かした教育を基本としています。門下には広瀬淡窓高場乱福沢諭吉などがおり、幕末に多くの人材を育てた教育者を輩出しています。

原詩亀文(詩の原に、文の亀井)と呼ばれた原古処

黒田家の支藩、秋月藩の藩校稽古館の館長は、かつて昭陽とともに甘棠館四天王と呼ばれた亀井門下の原古処(はらこしょ)が務めていました。原は藩主の側近にあって諸事の世話や指南をする御納戸頭の要職にも登用されており、そのような経緯から、秋月藩は亀井親子を厚遇します。後に南冥の主著『論語語由』は秋月藩から公刊されました。学閥争いに敗れ消えかかった亀門学でしたが、弟子達の支えによりその後も連綿と続いて行きました。

唐人町にある浄満寺の亀井家の墓所は県の重要文化財に指定されており、今でも訪れる人が後をたちません。