ヨーロッパとの唯一の貿易地だった人工島

天気が良かったので、ちょっと出島に行ってきました。
歴史にあまり興味のない方でも、出島の名前はご存じだと思います。江戸幕府の海外貿易政策と密接に関わり、ヨーロッパとの唯一の貿易地だったことは有名ですね。

出島内にある模型

1571年に長崎港に長崎開港協定に基づき、ポルトガル船がはじめて来航しました。以降、長崎港は唐船や日本の朱印船なども寄港し、国際貿易港として大きく発展しました。江戸時代に入ると幕府は当初、積極的な貿易政策をとっていましたが、やがてキリスト教布教禁止を強化するために、外国との貿易を厳しく制限していきました。

1634年にはそれまで長崎の町に自由に居住したていたポルトガル人を一箇所に収容するため、人工の島の築造に着手し、2年後の1636年に出島が完成しました。あの扇形の人工の島です。ポルトガル人が最初の住人となりましたが、1639年に幕府がオランダ人、唐人にのみ通商を許可したため、ポルトガル人は数年で退去。新しい住人としてオランダ人が入ってきました。オランダ商館の誕生です。以後、オランダとの交易は幕末まで続きました。

幕末以降の出島がどうなったかというと、1856年に出島開放令と共に出島の日本人役人が廃止。1859年には、出島のオランダ商館も閉鎖されました。その後、出島周辺の埋立工事が進められ、1904年の第2期港湾改良工事の完成により、出島の姿は完全に消滅しました。

いまの出島は長崎市の復元事業により、民有地だった出島の公有化に50年の歳月をかけて取り組み、再現されたものです。事業は1948年に戦勝国オランダの駐日大使から吉田茂首相に対し、戦時賠償の代わりに出島の復元を強く求めたことがきっかけとなります。その後、何度か計画が立案され小規模な復元がなされますが、ごく一部を再現したものに過ぎませんでした。

パンフレットより。
こんな感じで復元が進められています

、、、かなり前置きが長くなりましたが、今回は短中期計画で復元された街並みを紹介します。まずは第1期事業を中心に散策しました。

観光者が出島を訪れる際の入口は中央・表門メインゲートのみです。ゲート入口に架かる「出島表門橋」は、かつて出島と対岸を結んでいた橋と同じ位置に架け直したものです。2017年に完成。

出島表門橋

第1期事業で復元したのは出島の西端の5棟。こちらは水門ゲートがあります。出島で取引される貿易品は、この門を通って荷揚げしたり、積み込んだりしていました。

水門
外から。右が輸入、左が輸出の扉です

水門のすぐそばにあるのが、一番船船頭部屋。1階は倉庫で、2階はオランダ船船長やオランダ商館員の部屋でした。

一番船船頭部屋
2階

一番船船頭部屋の隣は一番蔵で、砂糖などが収められていました。

一番蔵
内部

一番蔵の隣は二番蔵。染料の原料となる蘇木などが収蔵されていました。

二番蔵
内部

一番船船頭部屋の向かいにあるのがヘトル部屋。ヘトルとは商館長次席の呼称のことです。ヘトルもとで働く日本人も部屋の一部を使用していました。内部は復元でなく、お土産物屋さんになっています。

ヘトル部屋

ヘトル部屋の奥にある建物は料理部屋。商館員たちの食事をつくっていたところです。出入りしていた役人らは、ここで作られた西洋料理をお土産として持ち帰っていました。当時、珍しかった西洋料理は大変喜ばれたとか。

料理部屋
内部

ここまでが第1期事業で復元された5棟です。次回は第2期事業で復元されたカピタン部屋など5棟を紹介します。