佐賀の乱の最大の激戦地

天気が良かったので、ちょっと境原宿跡に行ってきました。

境原宿は長崎街道の宿場町で佐賀宿と神崎宿との中間に位置していました。また、蓮池城下から蒲田津に至る蓮池往還との分岐点でもありました。宿場は旅籠、茶屋、油屋、酒屋などの商家や民家約150戸ほどが軒を連ね、宿場を流れる中池江川を利用した河川運輸地としても栄えました。

この発展した境原宿も1874年の佐賀の乱では、最後の激戦地となり、多くが焼失してしましました。このため往時を伝えるものはほとんど残っていません。宿の範囲も分からないので、適当に散策することにしました。

跡碑の近くには浄覚寺というお寺があります。うちの近所にも同じ名前のお寺があるのですが、同じ浄土真宗本願寺派です。後で調べると、ここが宿の入口付近になるのだとか。

浄覚寺

おそらく宿の中心部にあったと思われる若宮神社を見てみました。この神社は佐賀の乱の「境原の戦い」において、佐賀軍の2大勢力のひとつ憂国党が本陣を置いたところです。もうひとつの勢力は征韓党で党首は江藤新平ですが、この時にはすでに壊走。江藤は鹿児島に向かっていました。追い詰められた憂国党は夜通し政府軍と激しく闘いましたが、側面を突かれて壊滅。党首の島義勇も鹿児島に向かいましたが、間もなく捕縛。同じく捕縛された江藤らとともに斬首され晒し首にされました。

若宮神社の一の鳥居。このブログではおなじみの肥前鳥居です
太鼓橋
神門

案内板によると神埼郡の鷹取山の頂に鎮座していたものを1569年に佐賀藩藩祖の鍋島直茂が神埼郡六丁牟田へ遷座。1594年に現在の地に遷座されたそうです。

拝殿

また、境原宿の範囲内なのか分かりませんが、付近には佐嘉郡と神崎郡の境を知らせる郡境石が建っています。

見えにくいと思いますが「従是西佐嘉郡、東神埼郡」と刻まれています
田園が広がる