太閤秀吉も立ち寄った歴史ある宿場町

唐津街道の宿場町、深江宿にやってきました。現在も旧家が街道沿いに並んでおり、当時の面影を残しています。

深江宿はカギ型に屈折し、中心部である本町には人馬継所、制札、本陣などが置かれていました。

また、宿場の中に藩境になる小川が流れ、隣の前原宿よりも深江宿に宿泊する旅人が多かったようです。

宿場の中心部に近いお米屋さんに、深江宿の札。

こちらは天保年間に造られた石灯篭と観音堂。古地図をみると、この石灯篭を中心に、多くの旅籠が軒を連ねている様子が描かれています。

公民館の近くにある小さな愛宕神社。本来の街道から少し外れた場所ですが、この先に中津藩の奉行所がありました。

延寿院高里地蔵尊

しばらく進むと、高台に地蔵堂があります。享保の大飢饉で亡くなった人たちを供養する意味で建立されたお地蔵様です。

沿革記によると、現在の御堂は明治時代に深江周辺の住民たちの寄付により建てられたようです。

残念ながら中は締まっていて撮影できませんでしたが、綺麗に手入れされた庭や手水鉢も完備した立派な御堂です。

この御堂からしばらく進むと、かつての藩境になっていた小川があります。

実はここから先の唐津城下までは、様々な藩領が入れ替わった飛び地エリアになります。その背景は、秀吉の治世まで遡ります。筑前・小早川家領の一部だった怡土郡西部36ヶ村を、当時は公領だった博多と交換しました。以来、怡土郡西部は江戸時代は幕府直轄の公領になります。

その後、享保2年(1717年)に奥平家が丹後宮津から豊前中津へ転封します。しかし宮津は9万石であったのに、中津は6万石。その差分を埋める為に公領から奥平家へ4万石分を割譲され、その中に深江宿の周辺一帯も含まれていました。

筑前国続風土記にもその辺の事情が記述されているので転載します。

公領
此國の内、博多の代地として、公に被召上し事、既に此巻首に記せり。長政公富國を初て領し給ひし時は、唐津城主寺澤氏の領地たり。寛永の末年、寺澤氏亡て後、わかれて公領及唐津領となる。

筑前国続風土記 巻之二十二

深江宿は、福岡領から、唐津領および公領、中津領へと管轄の藩が移り変わっていきます。