明治23年の条約改正問題

前回はこちらから。1889年、国会開設を前に街に政治の匂いが漂うなかで、ある一つの問題が、国の内と外を騒がせていました。それが――大隈重信による条約改正案です。外国人にも裁判官を任せよう、という案。これが国民に大きな怒りを呼びました。「それでは日本の裁判が、外国の手にゆだねられてしまうじゃないか」「せっかく取り戻しつつある国の尊厳が、また踏みにじられる」。 政府からも反対の声が上がりますが、大隈の決意は揺らぎません。
来島恒喜の上京

いくら条約改正に反対しようと声を上げても、国会が開設される前だったため、大隈ら政府が断行しようとすれば、それを止める手立てはありません。東京・牛込東五軒町の借家には玄洋社、紫溟会など5団体が結束して組織した日本倶楽部がありました。ここで条約改正に関する侃々諤々の議論は続きましたが、一向に結論がでません。そんな中、頭山は「格別の意見は持たないが、断じて屈辱的条約締結をさせないことに決めた!」と口を開きます。周囲はその言外に含まれた恐るべき覚悟を悟り、静まり返ります。頭山は福岡に電報を打ち、ひとりの若い男が福岡から上京します。彼の名は来島恒喜。福岡の出身で、もとは士族の家に生まれ育ちました。
大隈重信襲撃事件と社会の衝撃

――爆ぜた決意が、時代の静寂を裂きました。1889年(明治23)10月18日、外務省前。
外務大臣・大隈重信が乗った馬車に、モーニングコートを着た来島が爆弾を投げ込み、馬車もろとも吹き飛ばしたのです。大隈は右脚の膝から下を失う重傷を負いました。
来島は悠然と門を背にして立ち、高く手を挙げました。成功の合図です。そして皇居に向けて拝礼すると、持っていた短刀で、喉を突きその場で倒れました。享年31(満29歳)。その首は皮一枚で胴体とつながるほどだったとも言われており、壮絶な覚悟が伺い知れます。

大隈は片足を失っても条約改正への意欲を失ってはいませんでしたが、事件の1週間後に黒田内閣は大隈以外の全閣僚の辞表を提出。退院した大隈がやれることは辞表の提出だけでした。かくして条約改正は潰えました。

一方、事件の報せは、政界だけでなく警察の内部にも大きな緊張をもたらしました。爆弾による襲撃という前例のない凶行に、「個人の犯行」で済ませられるものではないという空気が広がっていったのです。来島の犯行が判明すると警察は一斉検挙に乗り出し、逮捕者は30人以上に及びました。しかし、来島が連累を出さないように周到な準備をしていたため全員釈放されました。
来島の手紙
来島は義兄弟とも言える仲だった的野洋介に宛てた遺書を送っていました。その内容は、条約改正の件で玄洋社が相愛社の対応が冷淡だったこと、逆に冷評されていた紫溟会の方が実行的な運動をしていることを伝えていました。名前こそ出ていませんが、紫溟会と連携する頭山が正しいと言っているものでした。この頃の頭山は、まだ孤立した立場でしたが、この遺書によって紛れもない玄洋社の中心となるのです。また、これを機に玄洋社の名は全国に知れ渡ることとなりました。
天下の諤々は君が一撃にしかず
来島の福岡での葬儀は1889年(明治22)11月1日。前日までの天候と打って変わって快晴だったそうです。政府や警察の目をはばかり造花など飾り付けは質素だったそうですが、参列者は5000人を超え、さらに来島の実家から崇福寺までの沿道は人だかりができるなど、結果的に盛大な葬儀になったそうです。さらに大隈は「蛮勇でもその勇気に感服する」と、側近を参列させ、来島の法事には香料を贈り続けたというから、ただ者ではないですね。この頃の政治家は未だ武士の気風を持ち合わせていたのでしょうか。

ここで頭山は「天下の諤々は君が一撃にしかかず」という、簡潔な弔辞を述べます。世の中の幾万もの言説も、あなたの一行動には及ばないという、最大級の称賛でした。来島の師匠の高場乱は「匹夫の勇に落ち、はじ入り候」と非難します。が、「なからへて 明治の年の秋なから 心にあらぬ月を見るかな」と詠み、来島を偲びます。
来島のテロについて

テロ行為は既存の合法的な手段を無視した暴力の選択として明確に否定されています。しかし、来島がテロを行った時代は、国会は未開設で、民衆の政治参加は制度上不可能であり、外交政策や条約改正などは政府主導で進み、国民は一切の発言権を持ちません。この時代背景において彼の行動は「極端な民意表現の最終手段」とも言えるのではないでしょうか。また、決行直後に自害するという粛然とした覚悟を持っていました。わたしは現代と違って、これらの点が来島の行為に国民が共感したのではと感じました。つづく。