前回はこちらから。これまで紹介してきたのは、玄洋社という結社の歩みでした。
今回は視点を変えて、玄洋社に連なった人物たちの姿に目を向けてみたいと思います。命を懸けた者、言葉に賭けた者、人を育てた者。来島恒喜、箱田六輔、高場乱を紹介します。

来島恒喜 民意が届かぬ時代に、命で訴えた青年

来島(1860年~1889年)は、福岡藩士・来島又右衛門の二男として、現在の福岡県福岡市に生まれました。幼少期から読書を好み、学問に対して真摯な態度を示していた恒喜は、まず高場乱が開いた私塾「興志塾」に入門します。高場の影響は大きく、恒喜ののちの行動主義的思想にも色濃く影を落とすこととなります。

その後、恒喜は福岡の堅志社、十一学舎を経て、1879年に向陽義塾へ加入しました。向陽義塾は、平岡浩太郎や頭山満らが関わっていた結社的教育機関であり、後の修猷館の前身となります。1883年には中江兆民からフランス語を学びました。その後、玄洋社に参加します。一時、小笠原諸島に渡り、同島に送還されていた朝鮮独立党の指導者・金玉均と交流します。

1889年、恒喜は玄洋社を退社します。これは大隈重信の条約改正案に反対し、大隈を襲撃する際に社員に累を及ぼさないためだったとも言われています。大隈が乗る馬車に向かって爆弾を投げ込み、爆弾は馬車の中に落ちて爆発。大隈は右足を失う重傷を負いました。来島は家伝の筑前左文字の短刀で自決しました。

常磐館の乱闘

来島恒喜の人物像を伝える逸話のひとつとして、しばしば語られてきたのが「常磐館の乱闘」と呼ばれる出来事です。福岡にあった料亭「常磐館」で、博徒の親分・大野仁平ひきいる一隊と大喧嘩した事件です。この時、来島は燭台で大野の頭をかち割ったと伝わります。その後、大野らとは和解し、彼らは同志となりました。剣呑なほどの正義感と行動性を持ち合わせていたことが分かるエピソードですが、普段は温厚で争いを好まなかったとされています。

天下の諤々は君が一撃にしかず

言葉が届かない時代に、彼は沈黙のまま、行動という最後の手段を選んだのだと思います。正義だったか、狂気だったか。それを判断するのは容易ではありませんが、国家の未来を自分の命よりも重く見ていたということは、言えるのではないでしょうか。

箱田六輔 民権に殉じた烈士

箱田六輔(1850~1888年)は、福岡藩士・青木善平の第二子として、筑前国福岡に生まれました。士族の家に育ち、維新の動乱を少年期にくぐり抜けた彼は、やがて明治政府の進める中央集権化に対して、地方からの民権確立を志すようになります。

高場乱の興志塾に学び、頭山満、進藤喜平太、奈良原至らと出会います。1878年、頭山満や平岡浩太郎らとともに玄洋社の創設に参加しました。玄洋社がまだ地域結社の色濃い時代にあって、彼は民衆の側に立った言論活動を展開し、民権思想の普及に尽力しました。

民権派の関脇

1880年に編まれた『明治民権家合鏡』では、箱田は板垣退助に次ぐ“関脇”にランクインされています。板垣からの信頼も厚く、「九州は箱田がいれば大丈夫だ」と評価されました。

突然の死

箱田六輔は突然、自宅にて割腹自殺を遂げました。その背景には、玄洋社内における民権派と国権主義的な対外論との思想的な対立があったとされています。

玄洋社は箱田の贈りもの

頭山満から「玄洋社は箱田の贈りもの」と言われるほど、箱田六輔は玄洋社の発展に尽力しました。
箱田家は「箱田金」と呼ばれるほどの資産家でしたが、彼はこれを惜しみなく活動資金に充て、自らの私財を投じて結社を支えました。「贈りもの」という言葉には、志と資本を分かち難く生きた箱田という人物の、生きざまそのものが封じ込められている気がします。彼にとって玄洋社は、思想のために託した、静かな遺産だったのかもしれません。

高場乱 叫ばぬ思想家、育てる志士

高場乱(1831~1891年)は、筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれました。
彼女は男性として育てられ、帯刀を許されるなど、当時としては異例の存在でした。10歳のときに男性として元服しましたが、これは藩から正式に受理されています。
この時代に男性として藩から認められたのは、高場家が黒田藩の御殿医であり特別な存在だったことや、支藩の秋月藩で女性の儒学者・原采蘋が男性として認められた前例があったことが関係しているのかもしれません。

亀井塾に入塾

20歳のときに、亀井昭陽の亀井塾に入塾します。
亀井塾は、当時としては珍しく身分・性別を問わない開かれた学風で、女性の弟子も多く、原采蘋の父・古処は亀井南冥の門下生だったそうです。

教育者として

明治維新後は、教育畑を歩むようになります。
1873年、現在の福岡市博多区住吉の人参畑跡に私塾「興志塾」を開設しました。
高場は乱暴者を好んで入塾させたといい、塾は「梁山泊」などとも呼ばれました。頭山によると、その教えは徹頭徹尾、実践的だったそうです。ここで有り余るエネルギーを持った若者たちが切磋琢磨し、やがて世に出て行くことになります。

一方で、多くの弟子たちが士族の反乱や自由民権運動などで先立っていきました。
特に来島恒喜の死は大きな衝撃だったようで、
「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月を見るかな」
と、嘆きの歌を詠んでいます。

来島の死から1年半後、高場は病に伏し、一切の治療を拒んで逝去しました。彼女の人生は、静かな問いかけのようだった――そんな印象を受けます。育てた者たちは剣を抜き、壇に立ち、歴史に名を刻みました。
世の中を変えるのではなく、変える人をつくること。それを信じて、最後まで歩んだ人だったのではないでしょうか。つづく。

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