金玉均 志をともにした者

前回はこちらから。明治十年代、日本に一人の亡命者が現れました。
その名は金玉均(キム・オッキュン、、、誤読しそうなので一応読み仮名を記します)。朝鮮の開化派に属し、清国の支配を脱して近代化を進めようとした人物です。1884年12月、甲申政変。金はクーデターを起こしますが、3日で失敗し、日本に亡命。その後、頭山満ら玄洋社が彼を支援しましたが、1894年、上海で暗殺され、玄洋社に大きな衝撃を与えます。彼の死は、玄洋社の視線を朝鮮、そしてアジア全体へと向けさせるきっかけとなりました。
開戦前夜の朝鮮半島

金玉均の死から数か月後、朝鮮南部で東学党が蜂起。
清国が鎮圧のため兵を派遣、日本も対抗して出兵し、半島に緊張が走ります。日本国民は金の暗殺は清日によるもだとの噂が広まり、憤ります。玄洋社はこの動きを「時が来た」と捉え、若手を中心に朝鮮への関与を強めていきました。
天佑侠の結成

東学党の乱が発生すると、釜山在住の吉倉汪聖ら壮士9人が天佑侠を結成。その後、玄洋社関係者の内田良平・大原義剛らも参加しました。天佑侠は朝鮮への情報収集や支援活動を実行する、民間義勇組織です。天佑侠のメンバーは朝鮮服、洋服、支那服など各人各様の出で立ちで戦闘に参加、東学党の暴徒鎮圧を名目に大軍を送り込んできた清国の軍隊らと戦います。
日清戦争勃発

1894年8月、ついに日本は清国に宣戦を布告します。天佑侠は役目を終えて解散します。後に、この時のメンバーが内田良平率いる黒龍会の中心となります。玄洋社は開戦を「正義の行動」として支持し、独自の情報網と人脈を活かして支援を行いました。開戦までは政府と対立していた野党も日本軍勝利の報に喜び、軍備予算拡張に反対してきた過去をあっさりと水に流し、1億5000万円の臨時軍事費はなんなく可決されます。驚いたのは清国です。日本政府と議会との間には大きな対立があり、戦争をするという大決断は出来ないと多寡をくくってていたからです。戦争は日本の勝利で終わりました。
下関条約と三国干渉

1895年、下関条約が締結。日本は遼東半島や台湾などの領土と賠償金を得ましたが、条約締結から6日後、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に遼東半島の返還を要求します。清国に恩を売って、日本の大陸進出を阻止する一石二鳥の策略でした。結果、ドイツは青島、フランスは広州湾を租借、ロシアはとりわけ図々しく、遼東半島を譲り受けてシベリア鉄道を敷設します。当然、日本は拒絶したかったのですが、国力の差は大きく、泣く泣く三国の要求を受け入れます。
国民の怒り

もちろん日本国民は憤激し、「戦争に勝って外交で負けた」と政府を激しく非難します。さらに下関条約によって独立したはずの朝鮮が、自ら進んでロシアに接近します。よくいわれる事大主義というやつですね。長いものに巻かれろと。こうなると日本もとより東アジア全域がロシアの植民地となる可能性がでてきます。玄洋社の若者たちは行動に移すことになります。つづく。