国辱と世論の高まり

前回はこちらから。日本政府はやむなく遼東を手放しましたが、その決断は「国辱」として人々の心に刻まれました。この時の怒りを象徴するように、「臥薪嘗胆」という言葉が流行します。仇討ちを誓うように、軍備拡張と対露強硬の気運が高まり、新聞も民衆も「いつか仕返しを」と声を上げました。玄洋社も、国家の屈辱を黙っては見ていませんでした。頭山は清国、朝鮮の状況をみて「国際関係においては依然弱肉強食の野蛮時代である」と断じました。彼らにとってこれは「アジアの秩序」に対する挑戦でもあったのです。

対露強硬論の形成

三国干渉以降、日本国内では「ロシア警戒論」が一気に広まっていきます。玄洋社は政府の公式外交とは別に、独自の情報網を使ってアジア情勢を探ります。内田良平や杉山茂丸らは、対露研究を目的とした私的な勉強会や会合を開き、やがてそれは「東亜同文会」や「対露同志会」といった組織へと形を変えていきました。政府が交渉と均衡外交に努める中、玄洋社は「もっと深い構造的な危機」を感じ取っていました。
「アジアを守る」という理念と、「国家として生き残る」という現実が、彼らの中で交差し始めていたのです。

満韓の将来

この時期、玄洋社の関心はますます朝鮮・満州へと向かっていきます。朝鮮半島は、次の標的としてロシアに狙われていました。一方、満州では露軍の駐留が既成事実化し、旅順の要塞化も進んでいました。玄洋社にとって、朝鮮・満州の動向は“日本の生命線”に直結する問題でした。1900年(明治33年)、内田は黒龍会を結成します。黒龍会は、アジア諸国の独立支援や反ロシアの民間活動を目的とした政治結社で、
表向きは研究・交流団体として発足しながらも、実際には情報収集や人脈工作なども行っていました。

会の名は、ロシアの南下政策を阻む象徴として「黒竜江(アムール川)」に由来します。つまり「黒竜の向こうに対峙する存在」という意味が込められていたのです。黒龍会には、玄洋社の人脈を基盤に、若い壮士や知識人、軍人、外交関係者が集い、後に中国革命支援やアジア諸国の独立運動にも深く関わっていくことになります。

「アジアを守る」思想が、「組織となって行動する」局面に入った。この流れのなかに、満韓問題を超えた広範なアジア主義が芽吹きはじめていたのです。

遠くインドへ ― チャンドラ・ボースらとの接点

そして、志の網はさらに広がっていきます。インド独立運動の志士たち、特にチャンドラ・ボースらが後年、玄洋社関係者と接点を持ち、東京で亡命者たちと交流していたことが記録に残っています。これはまだ水面下の動きでしたが、アジア主義が“言葉だけ”でなく“連帯”として動き始めた証でもあります。玄洋社の思想は、帝国の拡張ではなく、アジアの民のための自立と独立を志向していました。それは時に誤解され、時に利用もされましたが、彼らの目には「もう一つの戦争」が見えていたのです。

国民国家と志士たちのねがい

三国干渉から数年、日本は再び岐路に立たされていました。ロシアは南下を続け、満州と朝鮮において着実に影響力を拡大していました。国民のあいだでは対露開戦論が高まり、政府の慎重姿勢に対して不満と苛立ちが募っていました。そんななか、頭山満は最大の障壁・伊藤博文と会談します。そこで、彼は静かにこう問います。
「伊藤さん、日本でいちばん偉いのは誰だと思いますか?」。戸惑う伊藤に対し、頭山は「畏れながら、天皇陛下であらせられるでしょう」と言い、さらに「次に偉いのはあなたです」と畳みかけます。そして伊藤の目をまっすぐ見つめ、「あなたが、この際しっかりしてくださらなくては困りますぞ」と念を押しました。この言葉に伊藤は「その儀ならばご心配くださるな。この伊藤が確かに引き受けました」と応えたといいます。この問答は、開戦に向けての政治的覚悟を求めた場面として、今も語り継がれています。。
その後、日露の国交は断絶し、宣戦の詔勅が渙発されます。つづく。

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