宣戦布告 ― 国家の決断と世論の熱

1904年(明治37)、ついに日本はロシアに対して宣戦布告を行います。
国運をかけた決断であり、三国干渉以来、積もり積もった国民の鬱憤が「この時を待っていた」とばかりに沸き立ちました。その熱気のなか、玄洋社の人々もまたただならぬ想いを抱いていました。
頭山満は、もはや言論や圧力だけでロシアに対抗する段階ではないと判断し、同志たちを鼓舞します。

民間諜報・情報工作 ― もう一つの戦場

玄洋社が真価を発揮したのは、戦場の背後、つまり情報と人脈の領域でした。
正規軍の動きとは別に、彼らは中国・満州・朝鮮に広がる独自のネットワークを活用し、軍には届かない「民の情報」を集め、日本政府や陸軍に提供していきます。黒龍会を通じた民間ルートによる情報収集、現地の状況把握、要人との接触――これらは当時としては非常に重要な意味を持ち、政府も一定の支援を与えていたとされています。

満州工作と中国革命との接点

玄洋社の活動は「対ロシア」にとどまりませんでした。この戦争を機に、中国大陸での「民族の自立」を後押しする運動へと接続していきます。とくに孫文との連携、革命派の支援、そして清朝の転覆を見据えた行動がこの時期に強化されていきます。玄洋社の一部はこの時期から「アジア独立の母胎」としての役割を意識しはじめていたといえるでしょう。

ここで忘れてはならないのが、明石元二郎の存在です。陸軍中佐であり、参謀本部の密命を受けてヨーロッパに赴いた彼は、ロシアの後背地を揺るがすために国際的な革命運動への資金供与・連絡調整を担いました。明石は、ロシア国内の反体制勢力――とくに社会主義者やアナーキストたちと接触し、資金や情報を提供することで、戦線外でのロシアの不安定化を狙いました。

旅順の陥落、奉天会戦の勝利、そして日本海海戦。
日本は勝利を重ね、ついにはロシアとの講和交渉へと進みます。/

金子堅太郎 ― 講和の陰にいた交渉人

日露戦争の終結を決定づけた講和交渉、その舞台となったのがアメリカ・ポーツマスです。
ここで日本側の首席全権を務めたのは小村寿太郎でしたが、もう一人、陰で外交戦を支えた人物がいました。金子堅太郎です。彼は開戦直前から密かに渡米し、親交のあったルーズベルト大統領に繰り返し働きかけを行っていました。当初は「日本が開戦してもアメリカは中立を守るように」「講和の際には仲介してほしい」というのが主たる目的でしたが、次第に金子はアメリカ世論を味方につける広報活動にも乗り出します。

満州義軍 ― 名もなき支援のかたち

日露戦争が始まると、戦地となった満州では日本軍の進軍と並行して、「義軍」と呼ばれる民間の志士たちの活動がひそかに展開されていきました。なかでも「満州義軍」は、日本の軍部と緩やかに連携しながら、主に現地での諜報活動、後方攪乱、協力者の獲得などに従事した非公式の存在でした。

この義軍には、玄洋社に関わる人物も数多く参加していたといわれています。表には出ない、しかし確かな意思をもって戦地に向かった彼らは、軍属でもなく民間人でもない、いわば「志の兵士」でした。たとえば内田良平の率いた黒龍会の関係者や、以前から朝鮮や満州に足を運んでいた壮士たちは、現地の漢人や朝鮮人との接触に慣れ、地理にも通じていたため、情報活動において貴重な存在でした。玄洋社の長年のネットワークが、この地で“別の戦線”として生き始めていたのです。

中村天風 ― もうひとつの戦場にいた男

日露戦争が始まったとき、ひとりの異色の人物が満州の戦地に身を投じていました。
それが、のちに「積極思想」の開祖として知られる中村天風(なかむら・てんぷう、本名:三郎)です。

天風は陸軍参謀本部の命を受け、諜報員として満州に潜入していました。
その訓練と派遣にあたっては、頭山満の後援と助言があったといわれています。
彼は玄洋社の正式な社員ではありませんでしたが、頭山と親交を結び、頭山を“魂の師”として仰ぐようになっていきます

当時、天風は肺結核を患いながらも、厳寒の満州に潜入し、ロシア軍の配置情報や兵站経路を探る任務に従事しました。日露戦争に従軍した軍事探偵は130人いたそうですが、生還したのはわずか9人の中の一人が天風だったそうです。命を賭したこの体験は、彼の生涯を決定づける転機となります。帰国後、療養と哲学的探求の旅に出た天風は、やがて「心身統一法」と呼ばれる独自の修養体系を築き、多くの実業家や政治家に影響を与える人物となっていきました。

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