「革命の亡命者」との出会い
これまで、わたしたちは明治という時代を駆け抜けた玄洋社の足跡を、日清戦争から日露戦争の勝利までたどってきました。ここで、少しだけ時間を巻き戻しましょう。

その理由は、玄洋社と関わった外国人の存在です。彼の名は孫文――。後に「中国革命の父」と呼ばれ、アジアの近代史を根底から揺さぶる存在となった人物です。そして彼の背後には、玄洋社が掲げたアジア主義の思想がありました。
アジア主義とは
「アジアはアジア人の手によって守られるべきだ」という思想ですが、その中身は時代や担い手によって大きく異なります。①民間・志士による理想主義的アジア主義② 国家主導の政策的アジア主義③ 孫文やアジア知識人による大アジア主義の3つの潮流があると思います。①の担い手は頭山満・内田良平・宮崎滔天・玄洋社・黒龍会らじゃないですかね。特徴はアジア諸国の革命家(孫文・金玉均・チャンドラ・ボースなど)と連携し、思想・人脈・資金を通じて独立運動を支援し、大義と友情で結ばれた精神的・人間的連帯だったとわたしは理解しています。
話を孫文に戻します。1895年、清国・広州での蜂起に失敗した孫文は、命からがら日本の地を踏みます。そんな空気のなかで、孫文は宮崎滔天と出会い、次いで1997年、頭山満に紹介されます。孫文は以後、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での生活費や活動費など援助を受けます。
資金・人脈・思想支援の三位一体

玄洋社は孫文の革命運動に対し、表から裏からの支援を惜しみませんでした。とくに資金面では、銃器や弾薬の提供に至ることもありました。また、政治的な橋渡し役として、犬養毅ら政界人との接点を築いたのも、頭山ら人脈力によるものでした。民間の志士と政界・財界が有機的に結びつくことで、孫文の革命は広がりと深みを増していきます。
「革命後」の距離と変化
1911年、辛亥革命が勃発し、清朝はついに倒れました。孫文は中華民国の臨時大総統に就任し、「三民主義」に基づく国家建設の理想を掲げました。玄洋社の人々にとっても、それは長年支えてきた革命の果実でした。しかし、この喜びは長くは続きませんでした。

孫文は、大総統の地位をまもなく袁世凱に譲ることになります。袁は権力を掌握するや民権を軽視し、ついには帝政復活を画策します。この動きは、孫文と彼を支えた日本の同志たちとの間に失望と警戒を生む結果となりました。
しかし孫文は、その後も二次・三次の革命運動を展開し、再び民権国家を築こうと奔走します。1924年(大正13)、彼は神戸で頭山満と最後の会見を果たします。この翌日、有名な大アジア主義講演を行います。内容はアジアが一致団結して西洋列強に抗していこうというものです。しかし、翌1925年、志半ばにしてこの世を去ることとなるのです。
蒋介石と継承された革命

孫文の後継者となった蒋介石も、下野して来日し頭山を頼りました。頭山らは蒋を孫文と同じように支援しました。
習近平副主席の福岡訪問
2010年12月。中国国家副主席(当時)習近平氏は来日し、福岡を訪問します。彼が立ち寄った場所のひとつが、かつて孫文が滞在した土地――つまり、玄洋社の志士たちと語らった「福岡の記憶」だったのです。これは大きなニュースにはなりませんでしたが、歴史に詳しい者のあいだでは、「孫文と日本、そして玄洋社との歴史的関係を、中国側が静かに再確認した訪問」として受け止められました。