島原の乱の決戦地
天気が良かったので、ちょっと原城跡へ行ってきました。
1496年、有馬貴純により築城。島原半島南部の有明海に張り出した丘陵に築かれた原城は難攻不落の天然の要害でした。春城、志自岐原城、日暮城、有馬城とも呼ばれ、本丸、二の丸、三の丸などで構成していました。
日向に転封となった有馬氏に代わって1616年に入封した松倉重政は、島原城を築城。一国一城の令により原城は廃城となりました。そのまま何も起こらなければ、この城の名は全国に知れ渡ることは無かったと思いますが、あの島原・天草一揆、世に云う島原の乱が発生してしまいます。
一揆の原因は島原・天草の領主の圧政が原因ですが、とりわけ島原領主・重政の子・板倉勝家の領民への仕置きは熾烈を極めました。過重な年貢・労役を課し、これに応じられない農民には過酷な刑罰を科します。たまりかねた農民は代官所を襲撃し、代官を殺害。島原の乱が起こります。
原城は島原城の築城時に石垣などが運び出され、また、島原の乱の後には幕府により徹底的に破壊されたため、大規模な遺構は残っていません。しかし、訪れると独特のどこか重々しい雰囲気が、この城の存在感をひしひしと感じさせます。島原の乱では3万7000人の一揆軍は全滅、幕府軍は8000人以上の死傷者を出しました。発掘調査の度に多くの人骨が出土しています。
遺構はほとんど残っていませんが、市の体験型VR観光アプリをダウンロードすると築城時の姿が現れます。