平清盛に逆らったお坊さん
天気が良かったので、ちょっと俊寛僧都の墓碑に行ってきました。
俊寛は平安時代の真言宗の僧侶で、僧位の「僧都」を冠して俊寛僧都と呼ばれています。
俊寛は平家全盛時代に後白河天皇のために、丹波少将藤原成経、平康頼らと共謀して、鹿ヶ谷にある俊寛の山荘でクーデターを計画しました。世にいう「鹿ケ谷の陰謀」です。「平家にあらずんば人にあらず」と語られる平清盛の専横が気に入らなかったんですね。
しかし、計画が実行に移る前に発覚し1177年、首謀者である俊寛、成経、康頼は捕らえられ、島流しにされました。この流刑先は諸説あり、そのひとつが伊王島です。他にも鹿児島県の硫黄島とする説もあるそうです。その後、成経と康頼は赦されますが、なぜか俊寛だけは赦されず島に残され、そのまま1179年に他界しました。
時は流れ1755年から56年にかけて、俊寛を弔うために長福寺と墓碑が建てられました。その後、長福寺は廃寺となり、墓碑は台風で倒壊しました。現在の墓碑は1845年に再建されたものです。
北原白秋は俊寛の遺跡があると聞き、1935年に伊王島を訪れます。その後に詠まれた歌が歌碑として墓の隣に建立されています。
た、1975年に付近の藪の中から古墓2基が発見されました。墓石には長福寺建立に大変尽力し敬慕されていた等雄(1736年没)と盲僧(1769年没)の名が刻まれています。