福岡城内に存在した鴻臚館跡展示館を訪問しています。前回の記事はこちらから。
館内には中国製の陶磁器の他にも、朝鮮半島の新羅・高麗の陶器、イスラム系の陶器、ペルシャ系のガラス器まであります。
世界地図と一緒に展示されているので、どのようなルートで鴻臚館まで辿り着いたのかが分かりやすい。
貿易に使われていた当時の帆船の模型がありました。一例ですが、遣唐使の帰還率は36隻の派遣のうち26隻という記録が残っています。成功すればもたらされる富と名誉は大きいものの、非常に危険な旅だった事が分かりますね。
遣唐使は歴史の時間に習ったと思いますが、菅原道真により894年に廃止されます。しかし、その後も交易は続き、次第に有力寺社や貴族たちによる私貿易が活発になりました。
私貿易が盛んになると、貿易の中心は博多から筥崎へと移りかわり、11世紀頃の記録を最後に鴻臚館の名前は歴史から姿を消しています。
中山平次郎博士
実は鴻臚館の場所は、大正時代までは博多区の中呉服町あたりだと信じられていました。この説は江戸時代の学者青柳種信や伊藤常足によって提唱されたものです。しかし九大医学部の教授だった中山平次郎博士は、万葉集の歌をヒントに、古代の瓦や陶磁器等を福岡城内から自力で発掘し、福岡城内説を提唱しました。
その後、平和台球場の改修工事に伴い、おびただしい数の陶片と遺構が発見されて、中山博士の福岡城内説が立証されました。1999年から本格的な発掘調査が開始され、現在も続いています。青柳先生には筑前国続風土記拾遺で非常にお世話になっていますが、間違っている事もあるのですね。
これまでの調査の流れが写真入りでわかりやすく説明されていました。さらなる発見があるといいですね。
さて、展示物でひときわ異彩を放っていたのが、奈良時代のトイレの遺構。
この時代はトイレットペーパーなんてないから、木の棒でゴシゴシこすっていたようです。
排泄物からどのような食生活だったのかも分かるようで、外国人と日本人はトイレが分かれていました。
また、男性用と女性用もこの時代から分かれていたようです。そんな事まで分かるとは、考古学って奥が深い・・・。
鴻臚館は外国からの要人・商人を応接および宿泊させる他、時代の変遷とともに、警固所としての役割も担うようになりました。
特に869年におきた新羅の入寇や、1019年の刀伊の入寇の後には、防衛力強化が急務だったようで、鴻臚館を警固所として防備を固めたという記録が残されています。
日本とアジア各国を結ぶ拠点だった鴻臚館、歴史の痕跡を抱えたまま、現在も遺構の大部分は埋め戻されて広場の下に眠っています。今後の発掘で新たな発見が出る事を願います。