全国に約一万二千社ある天満宮の総本宮
受験の合格祈願に、学問の神様で有名な太宰府天満宮へやってきました。福岡で歴史のブログを運営していながら、中々来る機会がなくてやっとこれました。

全国に約12,000社あるといわれる天満宮の総本宮で、京都の北野天満宮と並ぶ天神信仰の聖地です。参詣者は九州一で、全国でもトップ10に入っています。この日も、インバウンド+受験シーズンで、平日にも関わらず凄い人でした。

祀られている神様は学問の神様・菅原道真公。藤原氏との政争に敗れ、大宰府へ左遷されて、失意のままこの地で亡くなりました。その後、道真公の御墓所に建立されたのが、太宰府天満宮です。「菅聖庿(かんせいびょう)」とも呼ばれています。

西鉄太宰府駅から天満宮へは、長い参道が続いており、様々な飲食店が軒を連ねています。特に道真公ゆかりの名物・梅が枝餅を扱うお店が多いです。餅の焼ける香ばしい匂いが食欲をそそります。

太宰府と言えば、近くに鬼滅の刃の聖地として有名な竈門神社がありますが、実は太宰府天満宮も呪術廻戦の聖地としてファンには知らています。実は劇場版主人公の乙骨憂太と、最も人気のあるキャラクター五条悟は道真公の子孫という設定なんですね。

実は道真公は現代では学問の神様として有名ですが、中世までは日本三大怨霊の一人として恐れられていました。道真公を左遷した派閥の有力者たちは相次いで病死。道真公の後に右大臣になった人も溺死しています。これらの死は全て、道真公の祟りによるものだと歴史書にも書かれています。

その後も、都で起きる全ての災いは道真公の祟りに結び付けられました。これを恐れた醍醐天皇は藤原氏を大宰府へ派遣、道真の墓所の上に社殿を建立して慰霊しました。これが現在の太宰府天満宮の前身である安楽寺です。

しかし、その後も祟りは収まらず皇太子が若くして死去。道真の官位を生前の右大臣の官職に戻し、正二位の位階を追贈したりしましたが、効果はなくまたも皇太子が死去してしまいます。

極めつけは醍醐天皇が臨席している清涼殿での会議中に落雷があり、多数の死傷者が出てしまいました。この事がショックで、醍醐天皇は朱雀天皇に攘夷して隠棲しましたがすぐに亡くなります。この落雷により北野の火之御子社の火雷神と結びつき、道真公は雷神である火雷天神になったと言わるようになりました。

その後、都で猛威をふるった疫病までも道真公の祟りとされました。当時の朝廷は恐れおののき、太政大臣の官職を追贈したり、北野の地に道真を祀る社殿を造営して、天皇・皇族をまつる神社の社号である「天満宮」を贈って怨霊を慰撫しました。これが現在の北野天満宮です。

その後は一条天皇が自ら北野天満宮へ行幸されたり、安楽寺へも勅使を遣わせて、最大限に敬意を払っています。安楽寺では太宰権帥により祭祀が厳かに行われるようになり、中世以降は怨霊ではなく、道真公が優秀な学者であった事から、学問の神様として崇拝されるようになります。

前置きがながくなってしまいました。さて、心字池にかかる太鼓橋を渡って本殿へと向かいましょう。この橋は3つ連なっており、それぞれ過去・現在・未来を表しているそうです。立ち止まらずに進みましょう。

途中に境内末社があります。太宰府天満宮の境内は広く、末社の数もかなりあるので全ては取り上げられませんが、なるべく写真でお伝えします。

この太鼓橋がかかる心字池を造ったのは味酒安行という人です。この方こそ、左遷された際に一人しか供を連れる事が許されなかったお弟子さんです。

牛車に道真公の遺体を載せて、牛が動かなくなったので、動かなくなった場所に祀廟を建てて師を弔ったと伝えられています。この祀廟が安楽寺になり太宰府天満宮へ変遷するのですね。

中世以降は代々の権力者達によって手厚く保護され、社運も隆盛を極めました。しかし明治時代に入ると「宮」号が皇族を祭神とする神社しか使用できなくなり、社名を太宰府神社に変更させられてしまいます。

昭和に入ると、神社は国家の管理下から抜け出して、戦後に社名を現在の太宰府天満宮へもどして現在に至ります。さて、次回はいよいよ境内で合格祈願をします(つづく)