選挙介入とその不覚

1890年、帝国議会が開設されました。
翌91年に政権を担っていた松方正義内閣は、議会で海軍予算の拡張をめぐって予算案が否決されたことを受け、議会を解散します。政府・官僚・藩閥に近い立場の「吏党」と政府に対して批判的な立場を「民党」との緊張と対立が渦巻く中で行われたこの選挙に、玄洋社は深く関与することになります。

松方からの依頼

松方正義からの依頼を受け松方の「全国民を相手にしてでもやり抜く」という覚悟を確認した頭山ら玄洋社は民党排撃に積極的に加わります。もともと頭山満は藩閥政治に批判的でしたが、海軍拡張は国家百年の大計のために賛同していたからです。後に頭山は「軍備拡張させ出来ればよいので、わしにしては吏党も民党もない。国家のためによければそれでよい」と語っています。ここから頭山は民の権利・自由を重視する「民権派」から国の権力・主権・対外的独立を重視する「国権論」へと転向していったと思います。

選挙干渉

全国で松方の命において大がかりな買収工作が行われ、従わない者は警察や壮士が乱入して脅しました。世に悪名高い選挙活動の大弾圧「選挙干渉」です。玄洋社は福岡県内に主だった幹部が各地に散り、暴力などで脅しました。この選挙干渉により全国で25人の死者、388人の負傷者が発生しました。なかでも高知が10死亡と最も多く、次いで佐賀8人、福岡3人、熊本および千葉各2人でした。日本選挙史上の一大汚点であり、玄洋社史にも「明治聖代の不祥事として嘆息せざるものあらんや」と記録されています。

選挙干渉は民党側も行った

ただし、当時の選挙において、特定の団体が候補者支援や票の取りまとめに動くことは、玄洋社に限られた現象ではありませんでした。自由党や改進党などの政党は、各地に「政治結社」や「後援会」などを設け、資金や人脈を通じて選挙活動を展開していました。また、各地域の旧士族による郷党組織や草の根の壮士集団も、時に実力をともなうかたちで選挙に関わっていたのです。その意味で、玄洋社の行動は突出した例というよりも、むしろこの時代の空気の中にあったひとつの表れだったと言えるでしょう。

敗北

しかし、選挙の結果は芳しくありませんでした。
福岡では定数9のうち吏党が8と圧倒しましたが、全国では吏党系124、民党系132、無所属44で民党の勝利。頭山は勝つまで何度も議会を解散させる考えでしたが、肝心の松方は落胆し退陣。
松方の「全国民を相手にしてでもやり抜く」と言う言葉を信じていた頭山は激怒。玄洋社社史には「松方と結んだ不覚を悟り、再び政界に出でず、只天下を白眼視するのみなりき」などと記しています。以後、頭山は政界から距離を置き、アジア問題に積極的に関わっていくことになります。

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