江戸期から続く日本最古の商店街
前回の続きで、浅草の浅草寺に来ています。仲見世通りを通って本殿へ向かっていますが、とにかく人が多い!そして9割が外国人、まさにオーバーツーリズムを感じます。

さて、浅草寺は徳川家からの厚い保護を受け、三代将軍・家光公が1649年に本堂を再建して以降、江戸の代表的な寺院として栄えます。そして江戸庶民が日常的に参拝する浅草の観音様として親しまれるようになりました。

人が集中する事で自然と浅草寺の境内や周辺では定期的に市が立ち、物売りや芝居小屋、茶店が軒を連ねるようになります。

江戸庶民文化が花開いた天明・寛政期には、浅草は芝居や見世物興行の中心地であり、参詣者だけでなく娯楽を求める人々も仲見世を訪れ賑わいました。江戸文化の特徴である信仰と娯楽の融合がはじまります。

浅草寺は付近の住民に境内の清掃を賦役として課すかわりに、南谷の支院の軒先に店を出す許可を与えました。貞享2年(1685)頃のことで、これが仲見世の発祥といわれています。次第に参詣者向けに菓子や土産物、軽食を提供する店が増えていきます。仲見世の成立は寺院を中心とした門前町の発展の典型例ですね。

十八世紀後半には、浅草寺周辺の整備が進み、参詣者の動線が一本の参道に集中したことで、仲見世の商業空間はより明確な形を帯びるようになります。これが日本最古の商店街といわれるゆえんです。

しかし、仲見世の歴史は順風満帆とはいきませんでした。その後は関東大震災や第二次世界大戦の戦火で壊滅的な被害を受けます。

戦後の復興期には、店ごとに統一された看板や外観が整えられ、浅草寺との調和を重視した景観形成が行われます。これにより、現代の仲見世通りの「江戸風情を感じさせる町並み」が確立されました。

震災や戦災を乗り越えてきた仲見世は、浅草寺の歴史とともに生きる商店街として、今もなお国内外から訪れる人々に当時の面影を伝えています。
かつては仁王門と呼ばれていた宝蔵門
仲見世を通り抜けると、宝蔵門に着きます。現在の門は昭和39年に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家でホテルニューオータニの創始者・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものです。

この宝蔵門と五重塔が収まる場所は、雷門と並んで浅草寺の代表的な風景ですよね。

門の左右に金剛力士(仁王)像を安置してある為、かつては「仁王門」と呼ばれていましたが、昭和の再建以降は「宝蔵門」になっています。これは門の上層に、浅草寺が誇る貴重な経典や寺宝を保管する“宝蔵”を設けたことに由来しています。

また、江戸時代からはじまり、東京大空襲など、宝蔵門は幾度も火災で焼け落ちています。その教訓を踏まえた耐火性の高い構造が採用されました。

こちらの阿形は仏師・錦戸新観の作。阿形像のモデルは力士の北の湖親方だそうです。

そして吽行のモデルは同じく力士の明武谷力伸。大相撲が好きだったんですかね?笑

ちなみにこの門の裏側には巨大な魔除けのわらじが飾られています。

宝蔵門の中心には「小舟町」と書かれた大提灯が架かっています。こちらの提灯の歴史は古く、1659年に日本橋小舟町の信徒から寄進されたのが最初です。

それ以来ずっと、10年毎に新調して奉納が行われています。

下から覗いてみると、こちらも雷門同様に龍の彫り物が施してありました。