美術館に移った数々の文化財

古代日本の宗教史と博多の市街地が接続する地点に、かつて 薬王密寺東光院(やくおうみつじ とうこういん) と呼ばれる寺院がありました。

現在は往時の堂宇こそ姿を消しましたが、その遺構と伝わる文化財は福岡市の貴重な歴史資源として後世に受け継がれています。

入口には文化財の写真とともに、この寺跡の歴史が紹介されています。毎回思うけど、この案内板はGJです。ちゃんとQRコードにも対応していますからね。

東光院は 大同元年(806年)に 最澄によって開かれたと伝えられています。最澄は比叡山を拠点に天台宗を開いた僧であり、東光院もその一環として博多の地に建立された古刹でした。こうした背景から、東光院は当初、 天台宗寺院 として始まります。

博多という港町は古くから対外交流の要衝でした。遣唐使が往来していた時代には、仏教文化や最新の宗教思想が九州へと積極的に入ってきていたと言われ、東光院の創建もこうした歴史的背景と無関係ではありません。

そして鎌倉時代には一時禅宗寺院となり、承天寺の末寺 になった時期もありました。戦乱の世が続いた室町時代後期にも信仰は篤く、「堅粕薬師(かたかすやくし)」 と呼ばれるようになります。

江戸時代には福岡藩主・ 黒田家 の庇護を受け、特に第2代藩主 黒田忠之 の時代には 真言宗寺院として薬王密寺東光院の名が定着しました。

名前にある 「薬王密寺」という称号は、本尊である 薬師如来 を中心とした密教的な信仰を色濃く反映しており、「病気平癒」や「健康」を祈願する人々で賑わいます。

東光院最大の魅力は、文化財の豊富さと質の高さにあります。25体の仏像が国の重要文化財に指定されています。これらの像は平安時代から室町・江戸時代まで多岐にわたり、日本仏像彫刻史を理解するうえで極めて貴重な資料です。

しかし明治に入ると、神仏分離や廃仏毀釈により、東光院も財政基盤を失い次第に衰退していきます。そして昭和56年には宗教法人としての東光院は解散。永年伝わってきた仏像や絵画の保存が危ぶまれるようになりました。

こちらは東光院最後の住職となった清藤泰順尼のブロンズ像。本尊である薬師如来立像のほか、国の重要文化財に指定された仏像を25体を、境内地とともに福岡市に寄贈する決断を下した人物です。

この英断により東光院の仏像や絵画は 福岡市に寄贈・移管 され、福岡市美術館によって保存・展示されるに至りました。また、東光院跡そのものも 福岡市指定史跡 として認定されて現在に至ります。

往時の荘厳な伽藍は消え、住宅や公園が立ち並びますが、地元学界や市民の間ではその歴史的価値が語り継がれています。

史跡としての東光院跡は、平安時代から近世にかけての仏教史を読み解く鍵であり、福岡という都市の発展と人々の信仰生活を理解するうえでも重要な資産です。

とても静かな境内は、かつてこの地に生きた人々の祈りと信仰の足跡を感じる場所でした。博多という街が古くから文化と信仰の交差点であったことを実感します。

この記事が私、mokudaiの本年最後の記事になります。今年はブログ開設から1000回を迎える事ができた記念すべき年でした。来年もマイペースに郷土史をお届けしますので、遊びにきていただけると幸いです。それではよいお年をお迎えください!

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投稿者

mokudai

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