― 静かな寺で、若者がキレた日 ―
功山寺。まず名前がいい。功山。勝ちそうである。石段をのぼる。

山門をくぐる。空気はとても静かだ。ここで挙兵?ほんとうに?と、思ってしまう。だが幕末は、こういう静かな場所で急に荒れる。

元治元年(1864)。長州藩の実権は保守派、いわゆる「俗論党」が握っていた。俗論党。なんともすごい名前だが、これは高杉晋作ら尊攘派側がつけた呼び名です。

つまり、かなりの悪口だ。「俗」だの「論」だの。要するに、腰抜けとか日和見とか、そんなニュアンスである。高杉は、この俗論党に対して、まあ容赦がない。言う。とにかく言う。遠慮なし。

その高杉らが、元治元年12月15日、功山寺に集結する。いわゆる巧山寺決起だ。兵はわずか八十余名。少ない。どう考えても少ない。普通なら、もう少し待とうと言う人数だ。だが高杉は待たなかった。そして演説する。
「俺はいまより、萩に駆けつけ殿様に直諌申し上げる。萩へ行く途中、俗論党に惨殺されるともあえて厭わぬ。いまの場合、一里行けば一里の忠を尽くし、二里行けば二里の義をあらわす。尊皇の臣士たるものが、一日たりとも安閑としている場合ではない」
ここでも、はっきり「俗論党に惨殺されても」と言っている。覚悟がえぐい。一里行けば一里の忠。二里行けば二里の義。距離で忠義を刻む男である。この石段のどこかで、この静かな寺で、そんな言葉が響いた。
そう思うと、少し背筋が伸びる。

なぜ勝てたのか。ここが不思議だ。80人で始めた挙兵が、藩内の主導権を奪い返し、やがて長州を立て直す流れへとつながる。奇兵隊の実戦経験。下関戦争の敗北による危機感。藩内の若手に広がっていた焦燥。火種はあった。高杉は、それを爆発させた。俗論党を「俗」と言い切る勢い。この勢いに、周囲も引っ張られたのかもしれない。

ちなみに。
のちの総理大臣、山県有朋。この人、挙兵当日はいない。三日後に参加する。
……様子を見たのだろうか。計算高い。だが、こういう人も必要だ。熱で動く人と、計算で動く人。維新は、その混合でできている。