蒙古襲来絵詞に描かれた激戦の舞台

生の松原海岸にやってきました。ここは文永11年(l274)に蒙古・高麗連合軍の襲来を受け、次の襲来に備えて鎌倉幕府により石築地(いしついじ)が築かれた場所です。長垂海岸から小戸海岸にかけて築かれた石築地を元寇防塁と呼んでいます。

元寇防塁はこの海岸だけではなく、博多湾の海岸線で船を接岸して上陸可能な場所に築かれたので、福岡市内の海に近いエリアだと、色々な所でみかけます。大半は復元されておらず地中に埋まっているか、石材として持ち去られてしまっているかですね。

生の松原の元寇防塁は当時の防塁の姿を、文献を元に忠実に再現してあるので、見学者は当時の様子をリアルに知る事ができます。

案内板です。福岡市内には各地区の元寇防塁毎に立っていますが、観光として見るならこちらの地区の元寇防塁が一押しです。ただ、専用の駐車場がないので公共交通機関で来るか、近くに一つだけあるコインパーキングに停めるしかないのが難点ですね。

この場所が日本史の教科書などに載っている「蒙古襲来絵詞」の有名なシーンの現場です。

この絵は宮内庁の協力で、実物と同じサイズで埋め込んであるそうです。肥後国の御家人・竹崎季長が、鎌倉幕府へ恩賞の交渉に行く際、資料として自分の戦いを描かせたものです。

手前が竹崎家一党、石垣の上にいるのは菊池家一党のようです。文永の役では、 菊池家 は上陸してきた蒙古軍を破り、蒙古軍の主力を麁原(そはら)へ撃退するなどの武功を挙げました。弘安の役でも海上に浮かぶ蒙古船を睨んでいる様子が描かれていますね。

絵と同じ場所からみた博多湾です。当時は襲来した蒙古船が所狭しと浮かんでいたのでしょうか。

元寇防塁が築かれたエリアと、防塁の仕組みです。当時は片側が急斜面に、片側は階段状の段差になっていたようですね。

こちらが全体像です。よくみると石の色がツートンカラーになっているの分かりますかね?

もう少し分かりやすい写真がこちら。西側は長垂海岸やに 長垂山で発掘できるペグマタイト(花崗岩)が使われ、東側は小戸一帯で発掘される砂岩に材質が分かれています。これは幕府から築城を命じられた、肥前国と肥後国の分担エリアの違いで石が変わるそうです。

元寇防塁は見事な松林に囲まれていますが、この松林は神功皇后 ( じんぐうこうごう ) がが三韓出兵の際に戦勝祈願のために逆さまに植えた松の木が根を張り、広がっていったという伝承があります。松が生きて栄えたことが地名の由来になったそうです。

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