数多くの人材を輩出した下級藩士の居住区

江戸時代に入ると、福岡城の西側の「西町」(現・中央区地行・今川)には、足軽など下級藩士が居住する屋敷が作られました。この地区からは後に大日本帝国憲法や皇室典範を整備した金子堅太郎や、幕末に活躍した平野国臣など、多くの人材が生まれました。

日露戦争の講和でも活躍した金子堅太郎

その後、黒田家は家臣団が増え続け、「西町」から樋井川を渡ったさらに西の地の「百道松原」を伐り払い、居住地域を拡大して「新西町」と名付けて武士の宅地である「新屋敷」が作られました。これが今日の「西新」の地名の由来になっています。新西町には、現在のプラリバあたりに玄洋社の総帥・頭山満の生家がありました。その後も開発は続き、現在の室見のあたりまで藩士達の居住地域になったようです。

プラリバの東側が頭山の生家、現在はタワーマンションになっています。

比較的身分の低い下級藩士が多く居住していた為、家の周囲に土壁や石垣ではなく、「珍竹」を植えて生け垣にしていました。この珍竹は、矢の材料に使ったりあるいは竹を焼いて鉄砲の火縄の材料にもなり、生垣は緊急時の武器の素材という役割も担っていました。

普通の土壁より風情があっていい。

珍竹で作られた塀のことを「ちんちく塀」や「ちんちく壁」と呼び、ちんちく壁の家に住む人は「ちんちく殿(ちんちくどん)」と呼ばれました。これは福岡城下に住む上士達がつけた蔑称で、小馬鹿にしたような意味合いがあったようです。

節約から生まれた壁ですが文化財に登録してほしい。

昭和の頃までは鳥飼~室見あたりの屋敷に多く残っていましたが、時代とともに姿を消して、今では室見4丁目付近にわずかにその姿を残しています。

綺麗に手入れをされているちんちく塀、お見事です。
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