数多くの人材を輩出した下級藩士の居住区
江戸時代に入ると、福岡城の西側の「西町」(現・中央区地行・今川)には、足軽など下級藩士が居住する屋敷が作られました。
この地区からは金子堅太郎や、幕末に活躍した平野国臣など、多くの人材が生まれています。
その後も黒田家は家臣が増え続け、さらに西の地の百道松原を開拓します。そして新西町と名付けられました。
これが今日の西新の由来になっています。その後も開発は続き、現在の室見のあたりまで藩士達の居住地域になります。
ちんちく塀
比較的身分の低い下級藩士は、家の周囲に土壁や石垣ではなく、「珍竹」を植えて生け垣にしました。
この珍竹は矢の材料にしたり、あるいは火縄の材料にもなり、緊急時の武器素材という役割も担っていました。
珍竹で作られた塀のことをちんちく塀やちんちく壁と呼び、また住人はちんちく殿(ちんちくどん)と呼ばれました。
実は福岡城下に住む上士達がつけた蔑称で、小馬鹿にしたような意味合いがあったようです。
昭和の頃まで多く残っていましたが時代とともに姿を消し、今では室見付近にわずかにその姿を残しています。