島原で散った肥前の熊
戦国大名が討ち取られた数少ない合戦とされる、沖田畷の戦場趾に行ってきました。
場所は島原市北門町です。長崎市方面から向かうと左手に有明海が広がり、右手には雲仙岳がそびえています。
当時、沖田畷は広大な湿地帯でした。 畷は「田のあいだの道。たんぼ道。あぜ道」また「まっすぐな長い道」という意味なので、この湿地に細い小道が延びていたようです。
1585年3月19日、有馬晴信が島津方に寝返ったのを知った 龍造寺隆信は 兵25000を率いて島原半島へ出陣。有馬氏の居城、日野江城を目指しました。兵3000の有馬晴信は島津に援軍を要請し、島津義久は兵3000を派遣します。
数の上では圧倒的有利だった龍造寺軍ですが、島津・有馬連合軍に巧みに湿地帯の細い小道へとおびき寄せられ、激しい銃撃を受けました。龍造寺軍は大混乱を起こし、隆信は討ち取られてしまします。
討取ったのは川上忠堅、または忠堅の従者の万膳仲兵衛尉弘賀とされています。
昭和4年5月 、この土地129個あった祠をまとめたものだそうです。
古戦場跡から150mほど先に隆信の霊を慰める二本木神社があります。
戦いの後、この地に残った龍造寺家の家臣らが小祠を建て霊を祀ったのがはじまりだそうです。