早世した大村藩尊王派の頭脳
飯盛神社の麓の道を歩いていると『松林飯山先生生誕地』と書かれた石碑が立っています。この石碑は早良郡田隈の医師が昭和4年に私費を投じて建立されたものです。
松林飯山は一般的にはあまり知られていませんが、幕末期に大村藩(長崎県大村市)で尊王攘夷派のリーダーとして活躍した、全国的に名前の通った学者でした。元々は大村ではなく早良郡羽根戸村の医師の家に生まれ、幼少の頃から神童と呼ばれ、3歳で漢学を理解し、7歳の頃には四書五経を読破していたという天才ぶりです。
十二歳の時に、大村藩主を相手に唐詩選の講義を行い、それがきっかけで大村藩に引き抜かれています。その後、藩主に従って江戸に出仕した際、安積艮斎の塾に入門し、ここでも神童ぶりを発揮して主席となりました。ちなみにこの塾の同門には吉田松陰、岩崎弥太郎、高杉晋作、小栗忠順、清河八郎ら幕末のオールスターのような顔ぶれが揃っています。
その後、幕府直轄の教育機関である昌平坂学問所に進み、19歳の若さで助教に任命されています。昌平坂学問所は東大の源流の一つとされる機関で、そこの助教に十代の若さで取り立てられるのだから、異例の大抜擢ですよね。
藩主の信頼も厚く、大村藩に戻ると藩校である五教館のトップに20歳の若さで据えようとしますが、流石にこれは自分から辞退して次席に収まっています。しかし24歳の頃には結局、藩校のトップである祭酒という役に就き、藩政にも参加するようになりました。そして全国的に広がりを見せる尊王攘夷運動に呼応するように、大村藩でも渡邊清、楠本正隆らとともに勤王派の組織を作り、大村三十七士と呼ばれる同盟を結成しました。
黒船が来航したこの時代は、全国各地の藩内で佐幕派と尊皇派に藩論が分かれて派閥争いが頻発しており、大村藩でも激しい主導権争いが繰り広げられました。そんな中事件が起きます。慶応3年1月3日、飯山はお城で開かれた宴からの帰宅途中、自宅付近にて何者かに襲われ、暗殺されてしまいました。知らせを聞いて激怒した藩主により1,000名近い藩士が動員され、佐幕派の藩士26名が捕縛されました。これが世に言う『大村騒動』で、藩主一門に繋がる家老も含め、大村藩の佐幕派は一層されました。
実行犯は誰だ?謎が残る飯山暗殺
この大村騒動のきっかけとなった飯山の暗殺ですが、これまでは対立する佐幕派によるものだとされてきましたが、近年の研究で別の犯人像が浮かび上がってきました。長崎大学の外山教授は、現地に赴いて熱心に調査を行い「もう一つの維新史」という書物にまとめています。決定的な証拠は出てこなかったようですが、状況証拠から実行犯は同じグループの同士であった渡辺昇であると推定されています。大変説得力のある推察で昇犯人説を取ると、確かに全てが繋がります。
以下、個人的に昇が犯人ではないかと思われる根拠です。
・飯山は勤王派結成の際に昇の加入に反対したことに恨みをいだいていた。
・頭脳派の飯山とは犬猿の仲で全くソリが合わなかった。
・史略の解説中に大勢の前で間違えを指摘されて恥をかかされた事を根に持っていた。
・飯山が実質的なリーダーでありグループの主導権を奪いたかった。
・勤王派の中でも急進派の昇には、穏健派だった飯山が邪魔だった。
・粛清された佐幕派26名の裁判に関わり、その記録を全て持ち出し箕島にて焼却処分している。
・佐幕派26名の親類縁者も含めると100名近く処分しており、この件に関する箝口令を敷いている。
・人間の胴体を袈裟懸けに一刀両断できる程の腕前は藩内でも数名に絞られる。
・平成に入って見つかった藩士の日記をみると、昇が犯人だと書かれている。
・維新後は報復を恐れ、親族と共に東京へ移住している。
推理小説などでは、一番得をしているやつを疑うのが定石ですが、昇はこの一件で政敵の佐幕派を一掃し、藩の実権を掌握して、維新後には県知事や府知事を歴任した後、貴族院にまで上り詰めています。決定的な証拠はなくあくまで諸説ある中の一説ですが、説得力のある推察だと感じました。