西新発展の礎となった黒田家の守護神

11月も下旬になると、紅葉八幡宮は植えられたカエデや銀杏が色づいて、境内が色鮮やかに様変わりします。普段は小高い山に祀られた閑静な神社ですが、この時期は紅葉狩りに訪れる人も増え、11月最終の土日に開催される「もみじ大祭」は毎年多くの参拝客で賑わいます。

個人的には子供の頃から神輿を担いだり、七五三を行ったり、西新出身なので地元の氏神様として最も身近に感じている神社です。紹介するならやはり紅葉の季節に!と思いあたためていました。12柱の神様が祀られているのに加え、神事もほぼ毎月行われているので、今後も随時ご紹介します。

まずはお宮の歴史から見ていきましょう。平安時代に筑前に派遣された柴田氏が、橋本村(現西区橋本)に産土神を勧請したのがはじまりです。江戸時代、この橋本村に鷹狩に来ていた二代目藩主・黒田忠之侯が坪坂という村娘と出会い、見初めて側室にしました。この忠之侯、黒田騒動を引き起こした事で、後の世に暴君として有名になってしまったお殿様です。

鷹狩に行っていたお殿様が兎や雉ではなく、女性を担いで帰ってきたので城内は大慌て。側近の家臣たちは青ざめます。というのも、忠之の正妻・梅渓院は、幕府との政略結婚で黒田家に嫁いできました。祖父はあの神君家康公の弟君。機嫌を損ねると幕府との関係にひびが入ります。側室になった坪坂はすぐに懐妊しますが、正妻への配慮なのか、実家のある橋本村へ帰されて出産しています。この時に橋本で生まれたのが、後の三代目藩主・黒田光之候です。

光之候はその後も、実母の実家・橋本村で養育されましたが、数え5歳の時についにあの黒田騒動が勃発します。藁にもすがる思いで産土神の紅葉八幡に騒動の収束を願い、聞き届けられたら必ず荘厳な社殿を建立して守護神として終生崇める事を誓います。その後、騒動はお咎めなしで収束し、光之は誓い通り百道松原に3万2千坪の社領を寄進して、荘厳な社殿を建立し、橋本村から遷座しました。

この社殿の場所は、現在の西新パレスのあたりです。明治時代の古地図をみてみると、現在の昭和通り沿いに大きく描かれています。高取へ移るのは大正時代に入ってからですね。

それにしても、昭和通りより南は全て田畑のようですね。西新がいかに紅葉八幡宮を中心に発展してきたかが分かります。

西新へ遷座してからは、黒田家の歴代藩主はもちろん、黒田家の家臣団からも崇敬を集め、藩に有事があれば、まず紅葉八幡宮に御祈願参拝することが慣例となりました。筑前國続風土記ちくぜんのくにぞくふどきにも約4Pに渡り、黒田家との関係が詳細に明記されています。光之公は貝原益軒を取り立てて、活動を支援しくれた恩人でもあるので、特に力を入れたのかもしれません。

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