幕末の志士達を援助した勤王歌人
梟の森付近を散歩していたら、思いがけず野村望東尼(のむらぼうとうに)生誕の碑をみつけました。野村望東尼といえば、女性ながら勤王の志厚い幕末の歌人です。幕末のスーパースター・高杉晋作をはじめ、勤王の志士達を支援した女性ですね、一部では勤王の母などとも呼ばれています。
実は母方の実家が、野村望東尼が隠居していた平尾山荘の近所だったので、子供の頃から平尾山荘や前の公園でよく遊んでいました。平尾山荘には立派な銅像が経っていますが、子供の頃は(この坊さん誰やろか?)位にしか思わず、歴史的な価値のある山荘でかくれんぼしたりして遊んだのを覚えています。
生誕地の隣の電柱には、望東尼の歌と簡単な紹介がありました。こういった地域史を知ってもらうための取り組みは良いですね。どんどん増やして欲しいです。
当時の地名も一緒に描いてあるので、古地図と照らし合わせて確認してみましょう。
下は江戸時代の地図になります、御厩後という地名なので御馬屋の南側あたりでしょうね。現在も残っている桜ヶ峰神社から、大体の場所を推定することができます。このエリアはある程度身分のある武士が居住していたエリアです。300石取りの家柄みたいなので、現在の貨幣価値に換算すると年収が最低でも一千五百~二千万程度はあるので、なかなか裕福な家庭だったようですね。ちなみに同じ勤王の志士として活躍した、月形洗蔵や加藤司書の家もすぐ近所にあります。
望東尼は野村新三郎貞貫という同じ位の家格で、一回り上の藩士と結婚していますが、大変夫婦仲が良かったそうです。夫婦二人とも和歌をたしなみ、揃って幕末の大歌人・大隈言道に弟子入りしています。勤王歌人のイメージが強い方ですが、勤王活動をはじめるのは夫を亡くした50歳を超えてからです。それまでは同じ趣味を持つ夫と、幸せな生活を送っていたようですね。
最愛の夫を亡くした望東尼は、剃髪して仏門に入り、その後上洛して上方の歌人たちと交流を重ねています。時は幕末、佐幕派と勤王倒幕派が火花を散らしている京都です。ここから勤王歌人として波乱の人生が幕を開けます。