三代目藩主・光之公の産土神
第三代藩主・黒田光之公ゆかりの神社、橋本八幡宮へやってきました。道を挟んで南側には巨大ショッピングモール「木の葉モール」があります。
この近辺に鷹狩にきていた第2代藩主・黒田忠之公は、坪坂(後に新見に改姓)という浪人の娘を見初め、御城に連れ帰り側室にします。そしてこの坪坂との間にできた子供が光之でした。
しかし、本妻に遠慮してか、坪坂は筆頭家老黒田一貫のもとに預けられ、実家のある橋本近くの別邸で光之を生んでいます。その後、本妻との間には子供ができなかった為、側室の子だった光之が家督を継ぎました。
光之は橋本で生まれ育った為、こちらの橋本八幡宮を大変崇敬しており、藩主就任の折にお城から近い西新へ立派な社殿を建てて遷宮しました。それが現在高取にある紅葉八幡宮です。
周辺にはお濠のようなものが。かつてこちらには、黒田藩主の別邸茶屋があったそうなので、その名残でしょうか。
橋本八幡宮の由来
『この八幡宮は今から五百年前文明十四年に柴田蔵人佐繁信父子によって初めて建立されたもので、当時の社殿の棟札の写しが柴田家に所蔵されております。蔵人佐の先祖は陸奥国(今の宮城県)新発田の人ともいい故あって一族郎党を引きつれて、橋本にやってきました。その時郷里の八幡宮の分霊をこの地に迎え社殿を建てたと伝えられております。
境内の北側のあたりに黒田藩主の別荘茶屋ががありました。三百五十年前の頃のことで、三代光之公は橋本の人を母として生まれ、この地で幼時を過ごしました。今もこのあたりを「お茶屋の内」といいます。光之公は産土神として八幡宮を崇敬し、寛文六年西新町紅葉松原に立派な社殿を建て遷宮しました。橋本の人はここから遙拝しておりましたが、たっての希望で後に社殿を再建し以来数度の改築が行なわれ現在の拝殿は明治二年に、神殿と渡殿は大正七年に改築されたものです。』
筑前國續風土記拾遺巻の(四十三)
村南松林の中に在。所祭應神天皇 神宮皇后 玉依姫命なり。里老相傳ふるは、文明十四年五月柴田内蔵助重信といふ者此社を建立す。寛永五年江龍公此村にて誕生し給ふ。寛永十九年高樹公本社再興し、側に護摩堂を立て始て真言宗の僧を置る。是社僧の始なり。寛文六年江龍公の命にて紅葉松原に神祠を新修し迂座し給ふ。是によりて里民其遺址に今の社を建立して遙拜所と号す。社内に松川原大明神社有。
普段は閉ざされていますが、この日はたまたま社殿が開放されていました。
神社裏にある阿弥陀如来です。こちらは廃仏毀釈を免れたようですね。
こちらは何神社でしょう?特に説明書きもありませんでした。
境内にはこのような小さなお社がいくつかあります。
こちらは松川原神社でです。
槇(まき)の木と楠(くす)の木が途中で繋がっている不思議な樹木です。「きずな」と命名されました。
本殿周辺にはちゃんと杜が残されて社殿を護っています。