前回までの話はこちらから)本丸東側にある本丸大手門を通ると三の丸へと繋がります。三の丸は東西75m×南北110mの大きさで、南部とその一段高い北部に分かれています。南部は東出丸、馬場、二の丸などと連絡しています。

本丸大手門

東出丸は長方形の曲輪で、大手口や三の丸の警護のための詰所があったとされています。1988年の調査では門礎石、玉砂利敷、石段が新たに発見されました。

東出丸
櫓台。

三の丸から二の丸へは馬場を経由して行けますが、お城の正面玄関である大手口に出て、向かうことにしました。

大手口
三の丸の入口・搦手口に向かう

搦手口は名護屋城にある虎口(城の出入口)です。搦手は城の裏側という意味で、表側の大手に対する言葉です。名護屋城には虎口が5つあります。

搦手口

二の丸は、後の時代にほぼ全域が削られてしまったことから、ほとんど遺構が発見されていません。肥前名護屋城図屏風には入母屋造りの屋根を持つ御殿風の建物や瓦葺きの門や塀が描かれています。

二の丸

二の丸の数少ない遺構として、長屋建物跡があります。建物は3棟で、うち2棟は幅5m、長さ20mの細長い長屋状の建物だったようです。この2棟の建物の西側には幅3m、長さ6mの小型の建物も発見されています。これらの建物は掘立柱が簡素であることから、築城時の仮設的な建物であった可能性があります。

豊臣秀吉の死後、朝鮮での戦いが終結すると名護屋城は廃城となったと伝わっており、城の用材は寺沢広高が唐津城の資材にされたそうです。石垣なども島原の乱の後に、一揆などの立て籠もりを防ぐ目的で要所が破壊されました。一時は人口約20万人を数える巨大都市でしたが、秀吉の死により忽然と歴史の表舞台から姿を消しました。名護屋のことも夢のまた夢ですね。

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