千人殺しの石垣
天気が良かったので、ちょっと延岡城に行ってきました。
延岡城は三角州に造られた比高50mほどの延岡山に築かれた山城です。豊臣秀吉より1590年に延岡の地を与えられた高橋元種は関ヶ原の戦いで東軍に与し、徳川家康から本領を安堵されたことにより縣藩(延岡藩)5万石が成立。1601年に着工し、1603年に完成しました。
しかし、1616年に高橋家が幕府の罪人を匿った罪により、改易。代わりに有馬家が5万3000石で入封します。3代・70年の治めた後、三浦家(2万3000石・1692~1712年)、枚野家(8万石・1712~1747年)の統治を経て、内藤家が7万石で入り、明治維新まで7代続きました。この内藤家は現在の福島県からの移封だったのですが、この引っ越しが大変だったようです。このお話しはまた別の機会で紹介したいと思います。
北大手門の東側にある石垣は、大小不揃いの割石を使って乱積みで積まれています。石面には400個以上の刻印が残っています。有馬氏が徳川氏の大坂城築城を手伝った箇所にも同様の石垣が確認されており、同じ技術者が延岡城の石垣の構築を行った可能性が高いそうです。
延岡城の見どころは、「千人殺し」と呼ばれる石垣でしょう。石垣の角の一番下側を引き抜くと一気に石垣が崩落し、1000人の敵を殲滅できるという伝承から、そう呼ばれています。本丸と二の丸の間だにある、この石垣は高さ19m、法長22mあり、九州では熊本城宇土櫓台、小倉城天守台に次ぐ規模を誇ります。
本丸手前には二階門(櫓門)跡があります。二階部分は櫓で、下部が閉会式の門でした。南北6m、東西17mあり、城内では三階櫓に次ぐ規模の建物だったそうです。本丸への突入を阻止するための堅固な防御施設だったと想像できます。
本丸から天守台跡に向かいます。有馬氏時代に製作された絵図には三重天守が描かれており天守閣の存在は否定できませんが、発掘調査では天守閣の存在を示す資料は確認できなかったそうです。また、城山の鐘があり、明治11年から現在も時を告げ続けています。