悲劇の貴公子・米一丸の伝説
福岡市東区の箱崎6丁目交差点角に、米一丸の供養塔と言われる九重の石塔があります。
こちらは、怨みをのんで亡くなった米一丸を供養するために建てられたと伝えられています。
現在は周辺地域の地名の由来にもなっていて、米一丸の名前がついた建物もありました。
供養塔の入口には鳥居、でも中には仏像。神仏習合の風習の残りでしょうか。
中は綺麗に手入れされていて、新しいお花も生けられていました。
竹みつでしょうが、日本刀が多数奉納されています。
米一丸の伝説
案内板があったので内容を転載します。
花崗岩を使った高さ4.2メートルの九重の石塔で、鎌倉末期(1300年代初頭)の作と推測されています。文治年間(1185年-1189年)、米一丸は主であった京の一条殿から、博多に入質している太刀を取り戻してくるよう命じられます。しかしこれは、米一丸の美しい妻を奪うために一条殿が仕掛けた罠で、博多を訪れた米一丸は夜討にあい、この地まで逃れながらも力尽きて自害しました。この塔は、怨みをのんで亡くなった米一丸を供養するために建てられたと伝えられています。
古いポンプ式の井戸がありました、手水舎の代わりなのかな?
さらに奥へすすむと、敷地内には多くの石碑や石仏が安置されています。
しかし、『筑前国続風土記』の著者・貝原益軒先生はこの米一丸伝説には半信半疑でした。
「乱雑にしてまことしからぬ事多ければ、信じがたしといへども、今の市井の人の口碑に残り、瞽女数段のうたひ物とし・・・」
どうも色々な伝説が混ざっていて、信憑性が薄いと書き残していますね。
しかし、この仏塔は風化具合などから本当に鎌倉時代のもののようです。米一丸が博多に来たのはちょうど鎌倉幕府成立の直前、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」と同時代の出来事ですね。