島津の必勝戦術・釣り野伏せ

天気が良かったので、ちょっと戸次川古戦場跡に行ってきました。
1587年12月12日、この場所で豊臣秀吉による九州平定の緒戦である戸次川の戦いが行われました。

戦いの舞台となった大野川。むかしは下流を戸次川と呼んでいました

島津義久の九州侵攻にタジタジとなった豊後の大友宗麟は大阪に出向き秀吉に救援を要請。秀吉は了承し、軍監として仙石秀久、さらに長宗我部元親とその嫡男の信親らを派遣しました。また、かつて長宗我部氏と四国でしのぎを削った十河存保も参陣します。

島津勢は島津家久を総大将として豊後に侵攻。対する豊臣方の仙石久秀らは戸次川の手前に陣取ります。ここでの軍議で久秀は戸次川を渡って島津勢を攻撃するべきと主張しますが、長宗我部元親は加勢が来るまで待機すべきと反対。しかし、十河存保は久秀の主張を支持し、渡河して島津に戦いを攻めかかることを決定しました。冬は川の流れも早く渡河した上での戦いはリスクがある作戦でしたが、久秀の与力でしたので反対できる立場になかったのかもしれませんね。

川幅がかなり広い

この動きを知った島津勢は、渡河した豊臣勢をお家芸の「釣り野伏せ」で迎え撃ちます。釣り野伏せとは、おとりとなる部隊が敵の正面から当たり、敗走を装いながら後退して敵を前進させ、機をみてあらかじめ隊を脇に伏せさせていた別部隊が、敵を取り囲み殲滅する戦法です。

伊集院久宣をおとりの部隊として正面に、伏兵として新納大膳と本庄主税助の隊を茂みに潜ませます。

両軍激突の地

新納大膳はある程度戦ったのちに、押されたふりをして退却。これを豊臣勢は追撃したため、軍勢が縦に伸び切ってしまいます。

ここで伏せていた新納大膳と本庄主税助の隊が横合いから突撃。豊臣勢は大混乱に陥り、指揮官の仙石秀久は敗走。戦闘に参加していなかった大友宗麟の嫡男・義統も逃げ出します。残された長宗我部元親と信親、十河存保らは針のむしろとなりました。実際に現地に赴くと両側が川と丘に挟まれた狭小な場所です。前面の長宗我部や十河は豊臣勢は左の丘から勢いよく突っ込んでくる島津軍に当然驚いたでしょうし、前面は島津軍の本体、右は戸次川、後方は味方部隊がいますので、身動きがとれませんね、、、

伊集院隊が逃げるので、調子に乗って追撃したら、、、
脇の茂みから島津軍が出てきた!!伊集院は反転した!!大ピンチです

激戦の中、長宗我部元親は戦場を離脱することに成功。四国まで逃げ落ちます。しかし、長宗我部信親、存保らは奮闘の末、討死してしまいました。後に信親の死を知った元親は悲観に暮れたそうです。また、この戦いを指揮した仙石秀久は秀吉の怒りを買い、改易されてしまいました。

長宗我部信親終焉の地
長宗我部信親の墓