祭祀の場に使われた三の曲輪
三の曲輪からの絶景ですでに大満足してしまいましたが、せっかくなので一番上まで登ります。
この青い空と綺麗な海を見るには真夏がベストなんでしょうけど、とにかく暑い。
この曲輪は儀式を行う場所に使われていた形式があるらしく、その遺構がでてきているようです。なぜか幼児の人骨も発掘されたそうで、人柱的なものでしょうか?
石の積み方が、やはり日本よりも中国の城郭に近い気がしますね。
石積みについての説明。勝連城はほとんどが四角い切石を積み重ねる、布積みだそうです。
結構な大きさの木が生えていました。日陰を作る為でしょうか。
木の周囲には祭祀の際に、神人たちが腰かけるための石積みが残っています。
一応、三の曲輪には勝連城の内郭門が存在していたようです。
勝連城跡の名前の通り、ところどころに遺構がみられますね。
城内最大の建築物があった二の曲輪
階段を登って一つ上の階層、二の曲輪へ。
礎石が沢山残っていることから、かなり大きな建物が存在していた事が分かります。
四隅には長方形の石灰岩の石積み跡が。しかし何の役目を果たしていたのか分からないそうです。
城内の建物は発掘調査により、何度か建て替えられている事が分かっています。
さて、こちらは琉球古来の信仰で火の神様を祀っていたかまどウミチムン。
神が住んでいるとされた離島を拝む場所でもあったようです。
そして、こちらの洞窟は一の曲輪と繋がっている、敵に包囲された際の抜け穴です。
首里王府軍に包囲された阿麻和利は、この抜け穴から脱出。その後、読谷村まで落ち延びたという伝説が残っています。