西の丸を取り囲む三家老屋敷

西の丸は、1644年に3代藩主・久清の隠居後の住まいとして建築されました。1771年に大火により焼失し、8年後に再建されると、政務機能も、この西の丸へと集約されることとなります。また、1830年には久清の150回忌法事の祝技能、1832年の太祖・清秀の250回忌の祝技能が行われるなど、儀礼性も取り入れた施設となっています。

二の丸東御門付近

西の丸周辺には、3つの家老屋敷が建てられました。北側の中川民部屋敷、さらにその北に中川覚左衛門屋敷、東側には中川但見屋敷があります。このうち中川民部は、3代藩主・久清の五男・久旨を祖とする家です。

中川民部屋敷

さらに北に進み近戸門を通って中川覚左衛門屋敷跡に向かいます。中川覚左衛門の家は、茶人古田織部の弟で岡藩の家老を務めた古田重則にはじまる家系です。後に藩主から中川の姓を賜りました。

近戸門。家臣や領民の日常的な出入りに使われていました。
中川覚左衛門屋敷。当時の屋敷の間取りがわかるよう、床面が復元されています
中川覚左衛門屋敷へとつながる石段
この穴からも通ってたんでしょうね

次は西の丸の東側の中川但見屋敷跡に向かいます。但見は太祖・中川清秀に仕えた戸伏氏の家系で、2代藩主・久盛の代に中川氏を名乗りました。

中川但見屋敷跡
入口。立派なもんが建っていたと思われます

まだ説明していませんでしたが、中川氏は志賀氏が主家・大友氏の所領没収により城を去った後に竹田に入封しました。1594年のことです。1596年に中川秀成が城普請を行い、総石垣の近代城郭へと生まれ変わりました。岡城では野面積み、打込接ぎ、切込接、乱積み、布積み、谷積み、算木積みといった、多くの技法や積み方が用いられました。

技法による分類

自然石をあまり加工せず使用する「野面積み」
石の表面や石と石の接合面を多少加工し、隙間を少なくする「打込接ぎ」
石を整形し、密着させ隙間をなくす「切込接ぎ」

石の積み方による分類

不規則に積み上げられた「乱積み」
石が横に一直線になるように積み上げられた「布積み」
石を斜めに落とし込んで積み上げる「谷積み」
石垣の角部に用いられる「算木積み」

写真説明は、これらの技法や積み方の特徴をもとにわたしが判断したものです。間違っている可能性もありますので、その点はお含みおきください。