島津氏発祥の地・都城

天気が良かったので、ちょっと都城島津邸に行ってきました。

薩摩藩というと、薩摩・大隅(鹿児島県)を治めていた印象が強いと思いますが、日向国(宮崎県)の一部も領有していまいた。このうち現在の都城市辺りを領有していたのが、都城島津氏です。石高は4万石弱にもおよびます。そして、都城島津邸は1879年以降に同氏が住んだ邸宅です。

広さは5000坪で、「本宅」「石蔵」「外蔵」「剣道場」などが保存されているほか、同家から寄贈された1万点の資料を展示する都城島津伝承館も整備されています。いずれも2010年に見学施設としてオープンしました。

都城島津伝承館

都城島津伝承館に入ると、都城島津家関係の手紙や鎧、太刀などの史料が展示されています。島津の名は、この都城に「島津荘」と呼ばれる国内最大級の荘園があったことから由来します。鎌倉時代に惟宗忠久という武将が源頼朝の命を受けて、この島津荘を管理することになりました。忠久はこの荘園の名から島津忠久と名乗り、都城の祝吉に本拠を構えます。この忠久こそ、島津氏の祖となる人物です。故にこの都城は島津氏発祥の地となるわけです。

示現流燕飛。示現流の燕飛という形について15代・久直が1632年に伝授を受けたものです

その後、忠久は薩摩、大隅、日向の守護職なども追加され、有力な御家人となります。2代・忠時までは鎌倉に在住してましたが、3代・久経から在地化が本格化していきます。1352年に4代・忠宗の6男・資忠が都城に入ります。足利尊氏から都城内の北郷という地を授かったことから、北郷資忠と名乗ります。その後、江戸時代に入り本家の命で島津に復姓し、都城島津家となります。

都城島津家の家紋

都城島津家の家紋も島津本家のものと似ていますが、十文字と丸の位置が離れているのが特徴です。この家紋の成立時期は分かっていませんが、18世紀になると本家から形や使い方の規制が行われました。1701年には「十文字と丸のすき間が少ないので、すき間がはっきり分かるようにすること」などの命令がでています。差別化を図り、本家の価値を高めようとしたとされています。

一族でも十文字と丸が使われている家紋が多いです

次回は本邸をご紹介します。