別名・暘谷城

天気が良かったので、ちょっと日出城に行ってきました。
日出城は日出初代藩主・木下延俊が1600年の関ヶ原の戦いにおける功により、5000石加増の上、豊後日出3万石に封じられた。この時、父・家定も備中足守2万5000石を与えられ、足守藩を立藩しており、家康から手厚く礼されたのがうかがえますね。日出・足守藩主家は江戸時代を通事て豊臣氏を称することが許されていました。

日出小学校の校門付近にある日出城大手門跡。両端は蒲鉾塀になっており、左側に日出城の別名「暘谷城祉」と刻まれた石碑が建っています。石高にしては大規模な城だと思いますが、それでもコンパクトで散策しやすいと思います。まずは大手門に向かって右側にある鬼門櫓に行きます。

大手門跡

100mほど歩くとすぐに鬼門櫓に到着。鬼門櫓は現存櫓でかつて鬼門とされる城の北東部に築かれました。建物は北東方向の角だけないのが特徴です。これが鬼門が不吉な存在とされたため、鬼門の角をとって平になっています。現在の移築された場所は、かつて月見櫓があった場所で、北西に位置します。

鬼門櫓。角なしはこの建物の裏側です。。。
撮した写真にギリギリ入っていました。写真右上のところ、角が無いのが確認できますか
かつての鬼門櫓
櫓内も見学できます
2階。格子はもちろん、ここから弓、鉄砲で狙い撃ちするためです
外はぐるりと、壕がめぐらされています

鬼門櫓と反対の方向に向かってみます。大手門から向かって左側ですね。大手門付近には帆足萬里や瀧廉太郎の銅像が建立しています。帆足萬里はわたしは存じ上げなかったのですが、瀧蓮太郎がなぜここにと思い足を止めて、説明文を読みました。なんでも瀧家は日出藩の家老を輩出した家柄だったそうですね。てっきり竹田の出身かと思っていました。瀧は父親の仕事の関係で東京で生まれたそうですが、親戚などの手前、日出町出身と言っていたらしいですね。

帆足萬里

多くの城跡ならば大手門跡から入城するのですけども、ここは城跡がまるまる小学校になっていますので、裏門から入ります。

写真真ん中が裏門、右が大手門
日出城の鐘
日出小学校

登って聞くと日出城の時鐘があります。日出藩3代藩主俊長いの命により鋳造されたもので、毎日12刻の時を知らせていたそうです。太平洋戦争時には供出の危機にも遭いましたが、地元有志の力でなんとか守ることができたそうです。現在、毎朝8時に日出小学校の児童が鐘をついているのだとか。現在でも元禄の音を伝えているのは尊いことですね。

日出城の南側は別府湾に突きだした形になっています。そちらの方に向かってみることにしました。次回は城南側から紹介します。