現在も残る町割り
天気が良かったので、ちょっと柳川城跡に行ってきました。
柳川城は1872年の失火により、本丸、二の丸、天守が焼失。石垣は解体され台風で決壊した海岸堤防の修築に使用されたため、当時を偲ぶ遺構はほとんど残っていません。しかし、水路や小路は現在とほとんど変わらず、古地図をもとに城下町を散策することができます。
まずは本丸・天守に行ってみることにしました。現在、本丸・二の丸は市立柳川中学と私立柳川高校のキャンパスとなっています。
柳川城は1501年~1501年に蒲池治久が築城。掘割に包まれた天然の要害で、龍造寺隆信や鍋島直茂、立花道雪らも柳川城を落城させることができませんでした。このため「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と歌われた戯れ歌があります。
蒲池氏が滅亡した後は、立花氏、田中氏、そして再び立花氏が城主として収めました。
石垣ぐらいしか、遺構がありませんでしたが、ぐるりと城跡を一周してみました。
一周するのに15分ほど。さきほども書いたように遺構は、ほぼ無いのですが、町割りは現在も残っており、当時の姿を思い起こすことができます。また、古地図に書かれた屋敷の名前と一致する家もあるのに驚かされました。