大正デモクラシー
(前回の続き)時は大正デモクラシーと呼ばれる、市民が民主主義に目覚めた時代に突入します。極貧のうえ、官憲に監視されながらの生活でしたが、社会運動家としては充実した生活を送っています。
大杉と共著で数々の書籍を残した他、「文明批評」や「労働運動」など、すぐに発禁処分を受けていますが何度も新聞を創刊しました。
私生活でも摩子に続き、次女・エマ、三女・エマ、四女・ルイズ、三男・ネストルの5人が生まれて充実しています。名前は全てアナーキストや革命家からつけられていますが、同じ名前・・・。
関東大震災発生
1923年9月1日、野枝達の住む関東に大震災が発生しました。190万人が被災、10万以上が死亡あるいは行方不明になり、首都機能は完全に麻痺に陥ります。
治安も急激に悪化、同時に朝鮮系の日本人や社会主義者が凶悪犯罪や暴動をおこしていると、根拠不明の流言が広がりました。
甘粕事件 – 終わりは突然に
震災から約2週間後、大杉と野枝は遊びに来た大杉の甥・橘宗一と3人で歩いている所を突然、陸軍・憲兵隊に連行されてしまいます。そしてその日の内に、憲兵隊の構内で殺害されました。
死因鑑定書によれば、野枝と大杉はともに肋骨が何本も折れており、胸部の損傷から激しい暴行を加えられた扼殺という事が判明。その後、死体は裸にして古井戸に投げ込まれ、馬糞や煉瓦を投げ込んで埋めて隠蔽されていました。
殺害動機としては、流言を信じた陸軍が社会主義者達が政府を転覆しようしていると思い込んでの行動でした。野枝は享年28歳、大杉栄は享年38歳、甥の橘宗一は享年6歳という若さでした。
吹けよあれよ風よあらしよ
生涯を通して習俗打破!を体現しながら激しく生き抜いた伊藤野枝。生前、彼女は母親に自らの死を予言するような言葉を残しています。
「かかしゃん、うちは……うちらはね。どうせ、畳の上では死なれんとよ」
男尊女卑の風潮が強い大正期に自由を求めて生涯を疾走した圧倒的な存在感は、死後100年が経過した現代でも色褪せず、小説・映画・ドラマ・舞台など様々な媒体で影響を与え続けています。