平原歴史公園へやってきました。田んぼが広がる糸島南部の田園地帯にあります。
しかしJRの駅からは結構離れているので、車じゃないとアクセスが難しい場所ですね。
公園全体の敷地も広く、駐車場も広々しています。歩いて行く事もできますが、ただメインの平原遺跡には南側の駐車場の方が近いです。
花壇や芝生広場が広がっていてのどかな風景。そして、車を停めてさぼっている営業マンもちらほら。
歴史公園の中でもメインになっているのが平原遺跡と旧藤瀬家住宅です。どちらも個別に取り上げますね。
さて、平原遺跡に向かいますが、結構遠いのでバイクで移動しました。
平原歴史公園と平原遺跡
そして途中、歴史公園らしくところどころに遺跡の説明版が設置されています。
重要文化財や国宝に認定された発掘品は、伊都国歴史博物館で見学することができます。
平原遺跡は、実は土地の持主がミカンの木を植えようとして偶然に発見されたそうです。
その後周辺には5基の墳丘墓が発見され、最初の1号墓のみ復元管理されています。
1号墓の副葬品の中には、日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数みつかりました。
1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多を記録しており、つまり糸島市にかなりの規模の集落があった事を示しています。
これらの出土品は近畿中心だった邪馬台国論争や、その他様々な学説に多大な影響を与え、見直されるきっかけになりました。
現在、糸島市には多くの文化財がありますが、その中でも群を抜いて古い遺跡になります。
在野の考古学者・原田大六
これら平原遺跡の発掘調査を、中心になって指揮したのが孤高の考古学者と言われた、糸島市出身の原田大六でした。大学には属さずに研究を続け、激しい気性からケンカ大六と恐れられていました。
平原遺跡からは三十九面の銅鏡を発掘しており、日本一の大きさを誇る大銅鏡を復元させています。その他、三種の神器を彷彿とさせる副葬品などを根拠に、新たな学説を多数発表しました。
その後も、沖ノ島の発掘調査に加わるなど在野の考古学者として活躍しました。
さて、現在平原遺跡は1号墓のみが復旧されています。次は原田大六の説と合わせて、復旧された古墳をご紹介します。