「濡れ衣」の語源になった有名な伝説
濡衣塚へやってきました。国道3号線と三笠川の間に大きな石碑と仏像が並んでいる一角があります。
実はこちらには、「濡れ衣」の語源になった出来事にまつわる石碑があります。
濡衣塚
では、早速その石碑をみてみましょう。
「康永三年銘梵字板碑」と呼ばれるこの石碑は、3カ所に梵字が刻まれています。
最上段は大日如来(バン)、右下が宝幢如来(アー)、左下が天鼓雷音如来(アク)を表しています。
実は、元は「聖福寺」の西門近くにあったようですが、2001年にこちらに移されました。
そして、濡れ衣の語源になった伝説です。
濡衣塚の伝説
「聖武天皇の御代(724~749年)に、筑前の国司として佐野近世という者が、妻と娘の春姫を連れて赴任しました。その時に連れてきた妻は病死してしまい、その後再婚して子供が生まれました。そして後妻は義理の娘になる春姫を大変憎みました。そこで奸計を巡らせて地元の漁師を雇い、春姫が釣衣を盗んだと近世に訴えさせます。近世は半信半疑で娘の寝所を訪れると、本当に濡れた釣衣が出てきました。逆上した近世は、娘の弁明も聞かずに斬り伏せてしまいます。
しばらくすると、近世の夢の中に春姫が度々現れるようになり、無実の罪を訴えて歌を詠みます。ここで近世は無実の罪で、娘を斬り殺してしまった事を悟ります。その後、後妻とは離縁して、遺体を春姫が好んでいた御笠川のほとりに埋めました。さらに国司の職を辞して出家し、博多の街に七つのお堂を立て、生涯春姫を供養しました。」
供養する為に建てられたお堂は、普賢堂・辻の堂・石堂・奥の堂・菅堂・脇堂・瓦堂。
やがてお堂は博多七堂と呼ばれ、現在も地名として博多の街に残っています。