知られざる黒田藩政272年の歴史を深掘り
いつも訪問ありがとうございます。当ブログもおかげさまで900回を迎える事ができました。100回の節目ごとに特集記事をお送りしていますが、今回はいよいよ黒田家272年の治世をみていきたいと思います。商人の町・博多に為政者として乗り込んできた黒田家、明治維新を迎えるまでどのような藩政を行ってきたのか深掘りしたいと思います。
実は黒田家の評価に関しては、地元ではいまだに賛否が分かれており、黒田家の殿様の全身像は福岡には存在しません。逆に家臣の母里太兵衛は、博多駅前と西公園に2体あります。
かろうじて大河ドラマの主人公になった如水が、福岡市総合図書館に頭だけ飾られている位です。仙台の伊達家、信濃の武田家、熊本の加藤家など、同世代の武将たちは未だに地元で熱烈に支持されているのになぜでしょうか?福岡や博多の街の歴史と合わせて紐解いていきます。
始祖・黒田官兵衛孝高
まずは黒田藩の始祖であり、大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛孝高です。福岡藩成立時にはすでに隠居していて、名前も如水になっていました。豊臣秀吉の軍師として、天下統一に大きな役目を果たし、あまりに有能過ぎて秀吉から警戒されてしまった為、警戒心を解く為に隠居した逸話があります。
関ケ原の合戦の際は、九州で兵を起こして、瞬く間に大友領の城をいくつか攻め取っています。しかし、皮肉な事に息子・長政の大活躍で関ケ原の合戦が思いの外早く終わってしまい、中央へ攻め上って関ケ原の戦いへ割って入る計画は途絶えてしまいました。(もう少し時間があれば天下を狙えたのに悔しい)といった内容の手紙を、仲の良かった吉川元春宛に送っています。
徳川の天下になり、黒田家が五十二万石に加増されて筑前へ入国する際は、筑前御討入といわれるほど緊迫した状況でした。博多は豪商達が取り仕切っていた港町で、為政者の入国は歓迎されていなかったようです。そこで如水は、親交のあった神屋宗湛等に根回しをして豪商達を抑えてもらい、完全武装した状態で長政を筑前に迎え入れています。
その後も如水は神屋宗湛の家に留まって、博多の豪商達と交流を深めたようです。息子の為に地ならしをしていたのでしょうね。この頃、手狭な名島城に代わり、新しい城の建築にも着手しました。築城名人といわれた如水は長政を手伝って、赤坂山という小山がある福崎という場所に舞鶴城を築きます。舞鶴城は、如水・長政親子が朝鮮出兵で苦戦した、晋州城を手本にしました。
有事の際には西は樋井川、東は那珂川を外堀として活用できるような造りになっています。また、さらに外側にある室見川や御笠川も計算に入れられていて、川沿いには意図的に寺社を配置したりしています。舞鶴城の数々の工夫には、築城名人といわれた加藤清正も驚いたという逸話が残っています。
隠居後の如水
舞鶴城ができるまでは太宰府に滞在していた如水ですが、舞鶴城が完成してからは三の丸に御鷹屋敷という隠居所を作って過ごしました。大変な子供好きで、近所の子供達は御鷹屋敷には出入りが自由だったという逸話が残っています。城下の町にも度々散歩に出掛けては、家臣や領民と交流していた記録もあります。とても気さくな大殿様だったようですね。
しかし、死期が近づくと度々家臣に対して癇癪を起すようになります。心配した長政と筆頭家老の栗山備後が見舞いにくると、家臣の忠誠心を現当主の長政に向ける為の芝居だという事が分かりました。最後まで息子の為に行動していたのですね。
如水は遺言で殉死を固く禁じ、またキリシタンとして埋葬するように指示しました。遺体は博多教会の神父の元に運ばれ、近親者のみで葬儀を行いました。博多の町の郊外で、キリシタン墓地に隣接している松林のやや高いところに埋葬された事が、近年イエズス会の書庫にあった神父の日記から判明しました。
その後、幕府の禁教令の手前からか、長政はキリスト教を棄教。博多教会を破却して、宣教師を追放しています。その際に現在の崇福寺の黒田家墓所に改装されたと記録にあります。しかし1950年に行われた黒田家墓地改葬時の調査では、如水の遺骨等は発見されませんでした。長政は父親の遺言に従い、改装したとみせかけて、遺骨はそのままキリシタン墓地に残したのかもしれませんね。(つづく)