黒田家と福博の町の関わりを紐解くというテーマでお送りしています、前回の記事はこちらからどうぞ。ミイラ化させてまで亡くなった事を隠した綱政の次は、次男の宣政(のぶまさ)が5代目の座に就きました。
五代目 黒田宣政
しかし、このお殿様は非常に病弱で政務を執る事ができませんでした。仕方なく先代の弟で叔父にあたる、直方藩主の黒田長清が兼務します。結局、病気の為に中々江戸から出る事ができず、三十五歳で隠居しました。
隠居するのは良いが、子供がいない為に跡継ぎ問題がおこりました。病弱な甥の代わりに政務を取り仕切っていた直方藩主の長清ですが、自分の長男を本家に養子に出して跡継ぎにする事を考えます。
六代目 黒田継高
しかし長清には息子が一人しかおらず、直方藩を継ぐ者がいません。そこで、宗家の六代目襲名と共に、直方藩は吸収合併される事になりました。黒田家の中で、歴代最も長い政権になった、六代目・黒田継高の誕生です。
直方藩の吸収と新屋敷
吸収合併により消滅した直方藩ですが、直方藩士達の大半は継高と共に福岡へ移住してきました。現在の修猷館高校より以西は松林が続く土地でしたが、ここを切り開いて新屋敷としました。
現在の西新~室見辺りは、この時に移り住んだ武士が多くいた地区です。この地区に建てられた新屋敷の特長として、蓬莱竹を生垣として使いました。この壁は火縄銃の材料にもなり、また壁の建築費を浮かす事もできる一石二鳥の優れた壁でちんちく塀と呼ばれています。
ちんちく塀の家には下級藩士が多く住んでいた事から、「ちんちくどん」とからかいの対象になりましたが、明治期にはこのちんちくどんから、綺羅星のような人材が次々と現れています。
享保の大飢饉
長い継高の治世で、黒田家史上最悪の凶事「享保の大飢饉」が発生します。冷夏と害虫が原因で起きたこの飢饉は、主に九州から瀬戸内にかけて発生し、中でも福岡が全国で一番被害が大きかったと言われます。
この飢饉によって餓死者や逃散が相次ぎ、福岡藩の人口は3割減ったと記録にあります。幕府からの救援物資が届き、荒戸の浜で施粥を行った際、荒戸を目指す途中で行き倒れになる人が相次ぎました。この時の様子を歌ったわらべ唄も残っています。
つんなんごう、つんなんごう、荒戸の浜までつんなんごう
博多湾一帯には、享保の大飢饉に由来する地蔵尊や供養塔が現在も各地に点在します。この飢饉を教訓に、福岡藩では常に領民に食料を備蓄させる「用心除」という制度を設けました。
継高は壊滅的な被害を受けた藩の財政を立て直すべく、様々な施策を打ち出しました。櫨(ハゼ)の栽培や石炭採掘の奨励、櫨や鶏卵、蜂蜜の専売制、産子養育の制度の整備、年貢減免、入植希望者の優遇策など多岐にわたります。
中でも遠賀川流域の年貢米運送を、上方の豪商・鴻池家に一任して関係の強化を図りました。経済的な後ろ盾を得て安定はしましたが、人口減など飢饉の影響は幕末まで財政を疲弊させました。
別邸屋敷 友泉亭
現在も城南区に残る「友泉亭」は継高によって、黒田家の別邸として建てられたものです。現在は三千坪ほどの広さですが、江戸時代の敷地面積は、中央区鳥飼から城南区東油山まで二万八千坪という広大な別邸でした。
その後、筑豊御三家の一つである貝島財閥が所有した後に福岡市へと所有が移り、池泉廻遊式日本庭園として整備されました。
大悲王院千如寺と光雲神社
天平14年(742年)に開山された雷山の千如寺は、福岡でも屈指の古刹でしたが、戦国時代の長い戦乱で僧坊は荒廃していました。荒廃した千如寺を再建すべく継高が建立したのが、大悲王院です。中には鎌倉時代作の国指定重要文化財・木造千手観音立像をはじめ、県の指定文化財も複数安置されています。
また、現在は県の天然記念物に指定されている大楓も継高が植樹したものだと言われています。
他にも、舞鶴城の本丸天主台東側にあった藩祖長政を祀る祠堂に「武威円徳聖照権現」と名付けたものが、現在の西公園にある光雲神社のルーツだと言われています。
復活した異見会
その他、藩祖・長政公が、家臣と意見を無礼講で交わした異見会を継高の代で復活させています。大飢饉という前例のない災害に見舞われましたが、50年におよぶ治世で様々な改革を試みたお殿様でした。
しかし、二人いた男子の後継者を相次いで亡くしており、幕府から打診されて徳川御三家の一橋家から養子を迎える事になります。次回は七代・治之から九代・斉隆の治世をみていきましょう。