外国からの施設を歓待した迎賓館兼宿泊所
福岡城内に存在した鴻臚館跡展示館を訪問しています。前回の記事はこちらから。
展示館の中にある復元された建物は、宿坊と推定される建物の一部だそうです。
平屋ですが広い中庭付でかなり大規模な施設だったようですね。一度の渡海で、大体百人から五百人ほどの人数が移動していた記録が残っているので、それに対応できるように規模も大きくなったのでしょう。
発掘されて剥き出しになった基礎部分をみていると、色々と妄想が膨らみます。考古学って浪漫ですね。
かなり至近距離まで近づいてみる事ができるので、発掘現場を体感した気分になれます。
当時の鴻臚館は朱塗りで瓦は一色に焼く技術がなかったので、まだらな色だったようです。建物の規模も大きかったので、博多湾に船が入ると甲板から目視できたでしょうね。
飛鳥時代後期、白村江の戦いで敗れた日本は、大陸からの侵略を恐れて筑紫に水城を築城します。そして大宰府が設置され、鴻臚館の前身になる筑紫館がおかれたのがはじまりです。
筑紫館が設置される以前にも、邪馬台国の時代には一大率という機関や、現在のJR博多駅の近くには那津宮家というものが置かれていました。
やがて筑紫館は鴻臚館と名前を変えて、遣唐使が廃止されると貿易商人を接待する場所として役割が変化していきます。
鴻臚館には唐~宋、新羅の商人達から多くの交易品が持ち込まれました。中でも陶磁器は数が多く、発掘調査でもかなりの数が出土しています。
鴻臚館での通商は最初は官営で行われていました。中央の貴族から依頼された品を唐物使という役人が優先的に買い取っていたそうです。陶磁器以外にも薬品・香料・毛皮・綿・装飾品・仏典・絵画などが高値で取引されました。
実際に出土したものがケースに入って陳列されていますが、まだ実用に耐えられそうな保存状態のものが多く驚きました。
これらの陶磁器は、現在の河北省・浙江省・湖南省・福建省・江西省などで作られたものです。
来日した商人達は到着から通商までの約半年間を鴻臚館内で過ごします。宿泊所や食事は鴻臚館から供出されていました。
時代が進むと北宋・高麗・遼の商人達も訪れるようになり、次第に官営から私営へと移り変わります。