当代屈指の文化人達が在籍した大宰府

前回に引き続き大宰府政庁跡をみてまわります。正殿跡に着くと3基の石碑が建立されていました。

実は大宰府政庁跡は、中世以降は礎石が抜き取られ、土地は田畑へ転用されて耕作地になってしまうなど、文化財が保護されずに荒れていました。このままではいけないと、地元の有志により建てられたのがこれらの石碑です。

太宰府碑

3基の中で建立が最も新しいもので大正3年に建立された太宰府碑です。碑文は儒学者・医者であり福岡藩西学問所・甘棠館の学長・亀井南冥のものです。元々は江戸時代に建てられる予定でしたが、碑文の一部が体制批判であると対立する学閥から攻撃され、建立できなかったものです。南冥の没後100年を記念して建立されました。

太宰府址碑

続いて明治十三年建立の太宰府址碑です。碑文は藩校修猷館の館長・竹田定簡と県令の渡辺清によるものです。碑文上部の篆書体の文字は、大宰帥(だざいのそち)や福岡県令を務めた有栖川宮熾仁親王によるものです。

都督府古趾碑

こちらが3基の中で最も古い明治4年に建立された都督府古趾碑です。観世音寺村で庄屋を務めていた高原善七郎によって建立されました。大宰府の文化財を保護する取り組みを生涯続けていたようです。

大宰は白村江の戦後、防衛拠点として全国にいくつか作られましたが、大宝律令(701年)の施行とともに筑紫以外の大宰は廃止されました。その後、九州全体の統治と外国の対応を行っていた筑紫大宰の役目は大宰府へ引き継がれていきます。

しかし、時代が進むと大宰府は次第に、政争に敗れた貴族の左遷先として使われるようになります。藤原広嗣は左遷された事を恨み、天平12年(740年)に聖武天皇に対し反乱を起こしています。この反乱の影響で、一時大宰府は廃止されましたが、3年後に復活しました。

平安時代に入ると、さらに権限と官職が強化されましたが、941年に藤原純友の乱で陥落して府庁は一度焼失しています。

保元3年(1158年)には、あの平清盛が大宰大弐に就任しています。弟が代わりに大宰府へ入り、平氏政権の基盤の一つとなった日宋貿易を行いました。次第に貿易の中心は博多に移り、さらに進むと大輪田泊(現在の神戸)まで直接貿易船が来るようになりました。

貿易の中心が移っていった流れで、鎌倉時代まで大宰府は直接的な交易実益を失って没落していきました。次第に権威付けの名誉職として大宰権帥が使われるようになります。

大宰府と筑紫歌壇

大宰府には優れた歌人達が多く赴任しており、梅を愛でながら酒を飲み歌を詠む「梅花の宴」では多くの優れた歌が生まれました。梅は唐から渡ってきた、最先端の文物のひとつでした。

日本最古の歌集である万葉集には、約320首は筑紫の地で詠まれた歌で、大伴旅人(おおとものたびと)、山上憶良(やまのうえのおくら)、小野老(おののおゆ)など、筑紫の地から優れた歌を産んだ人達を後の人が「万葉集筑紫歌壇」と呼びました。

小野老は大宰少弐として赴任して、8年後に大宰府で亡くなりました。

あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり
万葉集巻3-328


歌の意味は「青丹が美しい奈良の都は、咲く花がかがやくように、今が真っ盛りだ。」奈良の都から遠く離れた九州の地で詠む、望郷の念がこもった歌です。

政庁跡の敷地には、このようにゆかりの歌人の歌碑が点在しています。しっかりと説明もされているので分かりやすい。

こちらは大宰帥として赴任した大伴旅人の歌。

よのなかは むなしきものと しるときし いよよますます かなしかりけり
万葉集巻 5-793

大宰府赴任時に一緒に連れだって来た妻がなくなり、都からまた別の訃報が届いた事を嘆いて詠んだ歌だそうです。

石碑・歌碑・礎石しかない史跡ですが、広々とした敷地で、中世以前の時代に想いを馳せられる良い場所でした。事前にある程度、知識を入れてから訪問する事をおすすめします。