玄洋社の誕生と背景
前回はこちらから。明治維新後の福岡は、全国がそうだったように大きな構造変化の波に直面していました。士族層が社会的・経済的地位を失い、収入源を絶たれた多くの者が没落していきます。とりわけ、武士から平民への身分転換は形式的には平等を謳うものでしたが、実態としては武士の誇りと特権が奪われた転落感を生むものでした。

福岡はもともと筑前勤皇党など尊皇攘夷運動が盛んな地域で、幕末には多くの志士を輩出しました。しかし、そうした志士たちの多くは明治維新直前に藩内で粛正され、新政府に登用されることもありませんでした。明治期においては報われなかった勤王の地として不満と疎外感が強く残りました。

西郷立つ

士族の不満が頂点に達したのが、1877年の西南戦争でした。薩摩藩出身の西郷隆盛を中心とする反乱は、新政府への不満を抱えた士族層の象徴的な蜂起であり、福岡を含む九州各地からも志願兵が参加しました。らに、同年には福岡でも「福岡の乱(萩の乱の一部とされることも)」が勃発しました。これは福岡士族らが熊本鎮台の襲撃と県庁占拠を計画した未遂事件で、1877年10月、実行前に密告により発覚し、関係者約40人が逮捕されました。頭山満もまたその渦中に巻き込まれました。当時、士族たちによる武装蜂起の計画に関与したと疑われ、官憲により一時的に逮捕されたのです。奇しくも西郷隆盛が自決した翌日に証拠不十分で釈放されましたが、この体験は頭山にとって大きな転機となりました

士族の武力反抗が終焉を迎える中、地方では政治参加の新たな形を模索する気運が高まりました。とくに福岡では、士族や在野の知識人を中心に、地方からの発言力を高めるための言論活動や結社の動きが活発になります。自由民権運動は、明治6年(1873年)の板垣退助の下野と「民撰議院設立建白書」の提出を契機として始まり、1870年代後半には全国に拡大していきました。言論・集会の自由、憲法制定、議会開設を訴えるこの運動は、士族や在野の知識人に強い影響を与えました。
大久保利通暗殺

釈放された頭山らは開墾社を創設し、自給自足の生活の生活を送っていましたが、1978年に大久保利通が暗殺されたことを知ると、西郷隆盛に続いて板垣退助も立ち上がることを期待して高知に旅立ちます。そこで板垣退助の「立志社」の運動に触れます。頭山は板垣から「これからは刀ではなく、言葉で国を動かすのだ」と諭され、「自由民権運動」に目覚め、政治結社の可能性を意識させる重要な契機となりました。そのなかで福岡に誕生したのが、玄洋社の前身「向陽社」でした。
向陽社の設立

向陽社は1879年、箱田六輔を初代社長に頭山満、進藤喜平太らによって設立されました。活動は大変活発だったようで、東京の朝野新聞は同年5月の紙面で「福岡の向陽社は、近来ますます盛んにして、殆ど土佐立志社の上に出でんとするの勢いあり」と評しています。また、筑前共愛公衆会という筑前地域を1区15郡933町に分け、公選された35人の民選議会を設立し、全国に先駆けて「国会開設及び条約改正之建言」の建議を元老院に提出しました。まさに自由民権運動の旗手であったと言っても過言ではないですが、あまり自由民権運動との関わりが知られていないのは、根流に戦後の自由民主主義との根流に頭山らが関わってたことにしてはいけないという意図を感じます。
後年、頭山は「わが福岡こそは憲政発祥の地であった」としばしば豪語していました。
人気だった頭山の演説
後年の頭山を知っている人は、頭山翁はきわめて寡黙な人であったと、口々に証言したそうですが、24、25の頃は雄弁に演説をしていたことが知られています。演説は演壇に立つと、グラスに注いだ水をグイっと飲み干して演場を睨みすえます。そこからおもむろに語り始めるのがパターンだったとか。抜群の記憶力で自身が見聞きした話を論理的に流ちょうに話し、高知で覚えた民権数え歌を話の間にはさんで、歌う陽気さもあったようです。頭山をこのような行動をとらせるほど、この時代はエネルギーに満ちあふれていたのでしょうね。向陽社設立から2年後の1781年、いよいよ社名を玄洋社に改めます。つづく

笑顔の頭山。非常に珍しい写真だと思います。