平岡浩太郎の存在感

箱田六輔率いる向陽社は、全国にその存在感を示しますが、その中でも設立当初から関わっていたのが平岡浩太郎がメキメキと頭角を現します。平岡は福岡藩士の家に生まれ、 頭山、箱田と並び玄洋社の三傑と称される人物で、とにかく負けず嫌いだったそうです。頭山は「平岡の弁舌は軽快で比喩に富み、華やかな舞台に立った名優のように観客を魅了せずにはいられなかった」と評価しています。板垣退助の立志社から向陽社へと流れを一気に引き寄せたのは平岡の功績だったのかもしれません。

向陽社内部では社長の箱田と平岡がライバル意識を燃やし、派閥を形成していきます。最初は苦笑し、二人にわだかまりが無くなるよう話し合いを進めますが一向に埒があきません。ついに頭山の雷が落ち、一括した後、入れ札で社長を決めることを提案します。この提案は民権結社にふさわしい解決方法だったのか、社員は賛成し、社長投票が行われました。
そして頭山が当選、、、

さすがにこれには頭山も焦り顔で「自分で言い出したことだが、誠に申し訳ない。考えがあって表にはでないことにしている」と就任を固辞します。頭山は以後も玄洋社の社長に就くことはりませんでした。その後、再投票を行った結果、平岡が当選しました。これで社長は決まりました。
玄洋社へ改名

ここで社名が問題になります。平岡が言うには「向陽は太陽に向かうと書くが、これは太陽は天皇、すなわち天皇に手向かうという意味に取られかねない」と言い出します。再び平岡派と箱田派が争いかねない事態となり、恩師の高場乱に手紙を書き伺いを立てます。すると高場から「たかだか社名ひとつで争うとはなんと嘆かわしいことか」と叱られてしまいます。両名は恥じ入り、玄洋社と改称します。「玄洋」――すなわち玄界灘。 福岡の西に広がる外海。その先には朝鮮半島、中国、台湾、そして東南アジア。私はこの名に、彼らの視線がすでに「日本の外」へ向いていたことを感じずにはいられません。
玄洋社の三憲則
玄洋社は設立にあたり、明確な綱領と社則を掲げました。その中でもとくに象徴的なのが、以下の三憲則です。
第一条 皇室を敬戴すべし
第二条 本国を愛重すべし
第三条 人民の権利を固守すべし
当初、第三条は人民の主権を固守すべしでしたが、警察は天皇の大権を侵すことにつながりかねないと、届け出を受理せず、修正を命じたそうです。。この時、箱田30歳、平岡29歳、頭山25歳の時でした。
玄洋社の社屋
設立時、福岡市中央区赤坂1丁目付近に玄洋社屋がありましたが、1888年ごろに数百メートル離れた中央区舞鶴2丁目に移転しました。現在のNTTドコモ九州ビル付近ですね。木造2階建てで、1階が27坪、2階は5坪ほどたったそうです。床の間には箱田が自宅から持ち込んだ「宝珠を狙う大猪」を描いた掛け軸が飾ってあったとか。この掛け軸は箱田の死後、半世紀以上も同じ場所にかかり、同士の活動を見届けていたそうです。

明治14年の政変

玄洋社は設立から、自由民権、国会開設などを強く打ち出し活動していきましたが、1881年(明治14年)には、政界では大隈重信が下野に追い込まれる「明治14年の政変」が起こります。さらに「国会開設の詔」を発布して、9年後の国会開設を決定。先手を打たれた自由民権運動は目標を失って自壊していきます。福岡でも、自由民権運動に共鳴していた青年たちがざわつき始めます。つづく