明治14年政変と政党誕生

前回のつづきはこちらから。明治14年の秋、政府が大きく揺れました。大隈重信が政府内の対立によって罷免されると、それを受けて板垣退助は日本初の近代政党となる自由党を、大隈はのちに立憲改進党を結成します。板垣という象徴を得たことで急速に支持を集めましたが、その内実には揺らぎがありました。資金難、地方支部の暴走、急進的な若手の過激行動――民権の理想は、熱を帯びすぎたがゆえに、時として暴発し、政府からの弾圧を招くことになります。

明治15年4月、板垣退助は岐阜で開かれた自由党の集会に出席していました。そこで突然、1人の青年に短刀で襲われます。事件後、新聞の見出しにはこう書かれました。「板垣死すとも自由は死せず」この言葉は、民権運動の歴史に刻まれる名句となりました。この事件は板垣や自由党の株を上げたはずでしたが、党勢は急速に衰えはじめます。そんな中、板垣はヨーロッパ視察の旅に出発します。「民権の先進地を見てくる」という建前のもとに、政府が彼を国外に送り出したのです。これには、国内の自由党の動きを鈍らせる意図があったとも言われています。事実、帰国後の板垣が見たものは党内が分裂し、もはや立て直す手立てがなくなった自由党の惨状でした。

その頃の玄洋社は、、、

政党同士のいがみ合いには一切を関わりを持たず、隠忍自重して実力を蓄えていました。玄洋社には血気盛んな若者が集まっていますが、この時に何もしないよう指示する力が頭山満や箱田六輔にはあったのでしょうね。明治17年、朝鮮で小さな政変が起きました。「甲申政変」と呼ばれる、朝鮮の志士たちによる政権交代ですが、すぐに清国の軍が介入し、志士たちは命からがら日本へと逃れます。神戸で金玉均と初対面した頭山は当時としては大金の500円を手渡します。朝鮮に義勇軍を送るという計画を玄洋社や他の政治結社も計画しますが、頭山は見合わせることを決定。実はこの計画は日本政府に察知されていることに気付いていたからです。玄洋社の若者は憤慨しますが、この後に旧自由党の大井一派139人は当局の一斉摘発を受け壊滅。大井一派は資金調達のため数件の強盗事件を起こすなど支離滅裂な行動に走っていました。これが自由民権運動のなれの果てでした。

『福陵新報』創刊― 言論を武器にするもう一つの戦場

明治18年、福岡で「福陵新報」という新聞が創刊されました。玄洋社が地方から国政を見つめる視点を発信しようという試みでした。当然、新聞の創刊には資金が必要でした。その時は流石に頭山が動きましたが、まるでもらってやるという態度が、人々を呆れさせました。旧藩主の黒田家にも支援を願いましたが、ここでも同じ態度だったようです。。。頭山は生涯で最初で最後となる社長という肩書きを持ちます。新聞はやがて名前を変え、戦後の再編を経て、現在の「西日本新聞」へと受け継がれていきます。玄洋社というと行動的な側面ばかりが注目されがちですが、言論を通じて世の中に働きかけようとした姿勢も、たしかにあったのです。

杉山茂丸との出会いと炭鉱経営

玄洋社の活動が、しだいに言論や外交へと広がる中で、もう一つの方向にも動きが見られました。それが、実業の世界への進出です。その入り口に立っていたのが、杉山茂丸という人物でした。杉山は福岡の出身で、明治20年代、彼は頭山満と出会い、玄洋社の思想と行動力に強い関心を抱きます。

この時期、筑豊の炭鉱開発が本格化します。
政府が殖産興業を進めるなか、エネルギー需要が高まり、九州の炭鉱地帯は大きな注目を集めていました。
杉山はここに着目し、炭鉱経営に乗り出します。玄洋社の人脈や行動力は、現地での交渉や開発にとって心強い後ろ盾となりました。この時代の玄洋社は、さまざまな力を使いながら、自分たちの道を切り開こうとしていたのだと思います。杉山茂丸という存在は、その転換点に立っていた人物の一人でした。

条約改正の頓挫 ― 井上改正案の挫折と外交的敗北

明治政府にとって、開国以来の不平等条約を改正することは、近代国家としての体面を保つための最重要課題でした。井上馨もそのひとりでした。とくに問題となったのが、外国人に治外法権を認めるという点と、関税自主権が制限されているという点です。その是正を目指し、何人もの外務卿・外務大臣が交渉にあたりました。

井上馨もそのひとりでした。
彼が考えたのは、欧米列強に対して“日本も彼らと同じ文明国である”ということを示すことでした。
鹿鳴館の建設や洋装の礼装推奨など、いわゆる欧化政策はその象徴です。ですが、現実はそう簡単ではありませんでした。欧米諸国は、形式的な模倣には一定の評価を示しつつも、本質的な平等には慎重でした。
井上がまとめた改正案では、外国人判事の任用や租界の継続などが盛り込まれており、国内では「国家主権の譲歩だ」と強く反発されます。とくに民権派を中心に、反対運動が高まりました。

結局、井上改正案は大きな批判の中で撤回され、井上は辞任。条約改正はまた振り出しに戻り、政府の威信にも傷がつきました。この出来事は、外交の現場だけでなく、国内の政治運動にも大きな影響を与えることになります。つづく。

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投稿者

arahira

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