生まれては苦界、死しては浄閑寺

吉原の北のはずれにある浄閑寺へやってきました。ここ浄閑寺は別名投込寺と呼ばれるお寺です。

大河ドラマ「べらぼう」では、亡くなった遊女達は服を剥ぎ取られ、お寺へ裸で無造作に投げ捨てられるシーンがあり、AV女優が実際に裸で棄てられる遊女を演じて大変話題を呼びました。

その時に遊女達の死体が棄てられていたお寺がこちらです。荒川区の文化財にも指定されているようです。

この辺はもう台東区ではなく荒川区になるのですね。浄閑寺は「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という川柳が詠まれるほど有名なお寺でした。

では、早速中に入ってみましょう。鉄筋造りの比較的現代的なお寺です。駐車場も広く取ってあります。

萩原秋巌( はぎわら しゅうがん)のお墓がありました。萩原秋巌 は江戸時代の有名な書家です。

お墓や卒塔婆が所狭しと並んでいます。

榮法山(えいほうざん)浄閑寺が正式な寺名です。明暦元年(1655)の開山で浄土宗のお寺です。

遊女達のお墓へお参りにきたのでお墓の区画へ入ります。

吉原に双びなしといわれた花魁・若紫

入ってすぐ右手に有名な花魁・若紫のお墓がありました。綺麗な花が活けてあります、いまだに墓参りに来る人が多いのでしょう。

本名は勝田信子、武家の出身ですが17歳で角海老屋の遊女に身を堕とします。すぐに頭角をあらわし、たちまち角海老屋でも随一の花魁に上り詰めました。

若紫

そして22歳の花盛りで身請け話が持ち上がります。しかし吉原という苦界を抜ける直前で悲劇は起こりました、暴漢によって刺殺されてしまいます。犯行動機は諸説あり、通り魔という説や、無理心中を図った説など未だにはっきりとしていません。

他の遊女達はひとくくりにされて埋葬されているのに対し、若紫は名前入りの墓石があるあたりは別格ということなのでしょう。

※イメージ絵です

べらぼうでも描かれていましたが、投げ込まれた遊女達は着物さえ剝ぎ取られて裸で捨てられることが多かったそうで、当然墓石などはありません。

こちらが大量に投げ込まれていた遊女達の墓というか供養塔です。数が多すぎる為にひとつにまとめられています。

土台には遊女達の悲哀をあらわした有名な川柳も彫られています。

新吉原総霊塔の石碑と仏像が2体あり、一見するとお墓にはみえませんね。

新吉原総霊塔と向かい合う形で永井荷風の筆塚と文学碑があります。没後は浄閑寺に葬って欲しい願っていたそうですが、それが叶わなかったのでせめて小筆と歯だけを浄閑寺に納めたそうです。

この三叉路の南側の道路が吉原へ続く日本堤の名残なのだそうですが、どの辺が名残なのかよくわかりませんでした。

とりあえず安藤広重も描いたといわれる、日本堤を通って浅草方面へ帰ります。

投稿者

mokudai

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