行基作の仏像もまつられていた消えた寺院
霊鷲寺 趾という気になる字をグーグルマップでみかけたので寄ってみました。染井神社へ向う途中の参道にあります。
霊鷲寺について帰宅後に筑前国続風土記で調べると、貝原益軒先生も記録されています。時代は聖武天皇の頃なので奈良時代ですね。
染井山
筑前国続風土記 巻之二十二 怡土郡
其後聖武天皇の勅願として、清賀上人此地に始て寺を立、僧舎四十二坊を作りて、染井山霊鷲寺と號して、薬師堂を安置せり。夫より後は偏に寺院と成て、神社は側に残り、佛堂は本殿のごとくなれり。~
僧坊が四十二棟もあるとすると、創建当初はかなり大きな寺院だったようです。江戸時代にはすでに一棟しか残っていなかったそうです。
現在は、染井神社の入口側に、地蔵堂がポツンと残っているだけでした。
この場所だけ不自然に開けて整地されていますね。おそらくこちらが、お寺があった場所だと思われます。かつては行基作の仏像などもあったそうですが、しかし戦乱に巻き込まれて荒廃したと記録にあります。
霊鷲寺 地蔵堂
怡土志摩地理全誌によると、明治頃までは薬師堂が存在していたようですが、現在はこちらの地蔵堂のみ残されています。
そして、こちらのお堂は糸島東部八十八ヶ所霊場にも指定されているようです。