外様大名の御目付役「西国筋郡代」
天気が良かったので、ちょっと永山城跡と永山布政所跡に行ってきました。
1601年に豊後国日田郡2万石で入領した小川光氏が日田の三隈三山の一つである月隈山に築城した城で、丸山城と名付けました。その後、小川光氏に世継ぎが無かったため無嗣断絶となり、代わりに入封した石川忠総が永山城と改めました。
その後、石川忠総が下総国佐倉へ加増移封されると、中津藩の預かりを経て幕府直轄領となります。1639年に小川正長・氏行両人が初代代官となり、永山城を廃城。麓に日田陣屋を築きます。
登っていると崖面には多数の穴がありますが、これは古墳時代後期の横穴墓だそうです。1817に金比羅社を建立しようと、城跡を整備している時に発見されたそうです。その穴を掘っていくと人骨や土器が出土したとか。この骨を集めて麓に埋葬したほか、「帰安碑」と名付けた碑を建てたと伝わっています。
5分ほど登れた本丸石垣が見えてきます。野面積みと算木積が混在する石垣です。
月隈公園から、サクッと登れる良いスポットでした。ここから日田市街も見わたせるのでオススメです。
永山布政所跡へ
永山城跡から永山布政所跡へは目と鼻の先。永山政布所は日田陣屋の通称です。
幕府直轄地のうち10万石未満は代官、10万石以上は郡代で、日田は16万石。全国で4カ所あった郡代のうち、西国筋郡代として長崎奉行と同格だったとか。福岡藩、佐賀藩、熊本藩、薩摩藩と外様大藩の監視を長崎と連携して行っていました。
しかし日田が16万石もあったとは知りませんでした。ですが、収入は領内で消費されず江戸に送られていったため、町があまり繁栄することはなかったそうです。中央に吸い取られるバキューム現象で、水戸藩と同じ構造ですかね。また、詳しく調べたくなりました!