上野戦争で散った彰義隊員が眠る

前回は上野寛永寺から移築された黒門をみましたが、今回は同じ境内にある彰義隊士の墓へ。

彰義隊は、慶応4年(1868)に旧幕府側の立場で結成された武装集団であり、徳川家への忠義を掲げて上野山に立て籠もりました。彼らの多くは、武士だけでなく町人や浪人など、身分や出自もさまざまであったといわれています。

新政府軍との戦闘は短期間で終結し、圧倒的な戦力差の前に彰義隊は壊滅しました。上野戦争は、戊辰戦争の中でも市街地で行われた戦闘として知られ、その被害は寺社や周辺地域にも及びました。戦いの後、命を落とした彰義隊士たちは「賊軍」とみなされ、公に顕彰されることはほとんどありませんでした。

墓碑は華美なものではなく、名前や詳細が十分に残されていないものも見られます。しかし、そこには確かに、時代の転換期に命を落とした人々とその人達を弔う人達がいた事を語ってくれます。

松平太郎の墓がありました、榎本武揚や土方歳三らとともに北海道で抵抗を続け、蝦夷共和国の副総裁になった人物です。

大鳥圭介の追悼碑もありました。彼ももまた、蝦夷共和国にて陸軍奉行につき、最後まで戦った元幕臣です。降伏後は明治政府に出仕して、外交を中心に様々な活躍をしました。

徳川慶喜と懇意で、火消しでありながら将軍警護をした侠客・新門辰五郎の碑です。江戸の町で博徒、的屋や香具師などの元締め的存在でもありました。

榎本武揚高松凌雲の追悼碑があります。高松凌雲は幕末に活躍した医師で、明治期には赤十字運動の先駆者として知られました。榎本武揚は蝦夷共和国の総統として、最後まで新政府軍に抵抗した人ですね。その後、新政府でも厚遇され、最後は子爵になりました。

その他にも元彰義隊士の追悼碑など、お墓と入り混じって雑多に並んでいます。

明治以降、歴史は勝者の視点で語られることが多く、彰義隊も長らく否定的に扱われてきました。しかし、彼らが信じた価値観や大義は、単純に善悪で切り捨てられるものではありません。

円通寺の墓前に立つと、そうした評価の枠を超えて、敗れた側の視点からみたもう一つの維新史が浮かびあがってきます。

明治期は彰義隊という名称を出すのさえタブーの時代であったため、こちらの墓には「戦死墓」とのみ記載されています。明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立されました。墓碑銘も榎本武揚書。

上野戦争で戦死し放置されていた彰義隊士の遺体は、みかねた円通寺の住職と寛永寺の御用商人、そして新門辰五郎とその部下達が遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附しました。

円通寺は、書物の中だけでは理解しきれない幕末史を、「場所」として体感できる貴重な寺院です。移築された寛永寺黒門は、上野戦争の現実を視覚的に伝え、彰義隊士の墓は、時代の敗者となった人々の存在を静かに感じさせてくれる場所でした。

投稿者

mokudai

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